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何か臭いがする。余り好ましくない臭いが。本棚の前に陣取っていた私は、不意にこの臭いに気が付いた。猫足の椅子に座り、読書を楽しんでいる最中のことだった。開いていた本を閉じると、鼻をひくひくさせて、臭いの元を探す。椅子から立ち上がり、少し辺りを彷徨う。途中、何度か咳をして立ち止まるけれど、鼻は詰まっていないので、着実に臭いの元に近付く。間違いない。臭いは箱からしている。幾日か前に鳩を入れた箱だ。あれから一度も箱には触れず、未だテーブルの上に置かれたままになっている。箱の見た目は何も変わらない。でも、明らかにそこから臭いが発せられている。私は恐る恐る箱へと近づく。もしかして、箱の中の鳥に何かあったのかもしれない。フラワーリボンを横へ除ける。咳が出る。蓋に手を掛ける。再度大きく咳き込み、蓋から手を離す。呼吸を整え、胸の痛みが遠ざかるのを待つ。音を出して呼吸をする。今度は小さく咳を出して、唾を飲み込む。胸の辺りを鷲掴みにして、痛みに堪える。堪える間、臭いの根源を睨み付ける。なぜだろう、何か嫌な予感がする。あってはならない事が起こっているような気がする。でも、それはとても必然的な何かである気もする。死者が蘇らない事ぐらいは知っている。そういった事ではない。天国だとか、極楽だとか、エデンの園だとか、黄泉だとか、シャングリラだとか、十万億土だとか、ニライカナイだとか、隠世だとか、それら死後の世界や神々の世界とは関係のない事。何処へ行こうとも逃れられぬ現実を、この箱は孕んでいる。でも、私はこの蓋を開けなければならない。それを見なければならない。また咳き込む。日に日に咳が酷くなっている。私の身体はどうしてしまったのだろうか。いや、それよりも今は箱の中の鳩を確かめなければ。ゆっくりと深呼吸をしてから箱の正面へ立つ。蓋の端を両手で掴むが、余りの臭いに顔を顰める。けれど、手は離さず、一旦目を閉じ、落ち着きを取り戻してから、一気に蓋を外す。臭いがより一層濃くなり、周囲に広がっていく。私は箱の中の鳩を見る。いや、鳩だったものを見る。鳩の亡骸は原形を留めておらず、もはや得体の知れない物に成り果てていた。眼が――、翼が――、脚が――、脳が――、骨が――、筋肉が――、内臓が―― 。とても形容できるものではなかった。口元を押さえ、転がるようにベッドの方へ逃げ出す。目を白黒させながらも、平静を取り戻そうと努める。何なのだろう、あの醜い物は。死体は全てああなってしまうのだろうか。フランケンシュタインという青年は、死体を繋ぎ合わせて怪物を造ったという。その怪物は、知性はあれど、大変醜かったらしい。それはそうだろう。あんな物をパズルのようにくっつけて生まれたものが、美しいはずがない。ベッドの脚に凭れ掛かり、箱を見る。恐怖と不安から身体の震えが止まらない。そう、不安があるのだ。私もいずれは死んで、死体となった後、あのような変わり果てた姿になるのか。ロミオやジュリエットもあんなグズグズになって、棺桶の中で眠っているのだろうか。ああ、そうか。だから、火葬にするのか、腐り切る前に。だから、土葬にするのか、崩れ落ちる前に。箱を凝視したまま、そんな事を考える。歯をかちかちと鳴らし、ぶるぶると全身で戦慄きながらも、箱から視線を外す事が出来ない。融けた肉から露出した骨と赤黒く変色した内臓が入った箱。鼻がもげ、だらしなく舌を出し、片方の目玉を落としながら、割れた頭蓋骨からカラカラに乾いた脳を覗かせる私。
「いや、嫌ぁぁぁぁあああぁぁぁあぁあぁぁぁっ!」
箱の中身を想起し、続けて自らの成れの果てを想像してしまい、絶叫する。
いやだ、嫌だ、厭だ、否だ、イヤだ、嫌だ、いやだ、厭だ、いやだ!
もはや、箱は死神だ。ハデスだ。恐怖から逃れようと、よろめきながら化粧台へ向かう。化粧台がとても遠くに感じられる。足が縺れ、化粧台の前で前のめりに倒れる。身体を強かに打ち、苦痛に顔を歪める。それでも、前へ進もうと床を這う。化粧台を這い上るようにして、身体を起こす。咳き込む。最早、咳の事など忘れかけていた。兎に角、ハンカチーフを手に取り、それを震える手で広げる。赤い花弁はちゃんとそこにあった。一片の花弁が絶望しかけた私の心を癒やしてくれる。私は手の平に花弁を乗せると、背筋をしゃんと伸ばし、赤だけを見つめるように努めた。絶対に薔薇を見るんだ。赤く美しい薔薇を。このまま、この真白い部屋に閉じ込められているのは嫌だ。私はホムンクルスではないのだ。あんな冷たいフラスコの中で生まれて、その中から一生出られないような人間のなり損ないとは違うんだ。ホムンクルスはフラスコから出ると、身体が崩れてしまうみたいだけれど、私は違う。この白い壁さえなければ、私は外へ出て、色々な処へ旅立つことが出来るんだ。ああ、本物の花を見てみたい。それが、私のたった一つの希望。赤い花弁を見て、気持ちが上向き始める。薔薇に優しく口付けをする。一度唇を離し、花弁を見る。これを無くしてはいけない。失ってはいけない。その思いから私は大きく口を開け、赤い花弁を呑み込んだ。まるで手についたクリームを嘗め取るように。薔薇を嚥下し、一時の幸福を得た私は、ゆっくりと天を仰ぐ。しかし、その途中で吐き気を覚え、急いで口に手を当て、俯く。顔を下に向けるのとほぼ同時に大量の薔薇の花弁が私の口から溢れ出る。薔薇は一滴、二滴ではなく、奔流となって流れ出ていく。あれ程真白かった床が、真っ赤に染まる。ああ、なんて美しい薔薇だ。私の手も朱に染まり、赤い花が咲いたよう。この時、私の中の何かが壊れた。それが理性なのか、観念なのか、何なのか分からないけれど、私はここに居るべきではないという強い思いに囚われた。目を見開き、白い扉を凝視する。腕をだらんとだらしなく垂らし、歩き始める。一歩踏み出しては一呼吸だけ間を置き、また次の一歩を踏み出しては一呼吸間を置いた。糸の切れた操り人形のように一歩踏み出す度に頭が上下、左右に揺れるが、瞳だけはじっと扉を見据える。咳をして口から薔薇が零れ落ちる。喉は痛いけど、構わず扉に近づいていく。薔薇を撒き散らしながら進む私。天窓から差し込む光が私を包み込む。温もりを感じる。これから私がする事を、天が見守ってくれているみたい。微笑で天に応え、天窓の下を通る。日差しの下から出ると白い靄がかかったみたいに視界が不明瞭になる。頭を振って、靄を払う。椅子にぶつかり転びそうになるが、背もたれに手を掛け、転倒を免れる。そのまま椅子を掴み、引き摺るようにして扉へ向かう。私はどれだけの薔薇を吐き出したのだろう。ぼんやりとそんな事を考えるが、決して振り返らない。扉の前に着く。長い長い道のり。でも、外の世界の何万分の一の距離だろう。椅子の脚を両手で持つ。そして、有りっ丈の力で椅子を扉へぶつける。木と木が衝突する音。扉に変化はない。私は再度椅子で殴り付ける。扉の一部が少し凹む。その凹んだ所を何度も叩く。一心不乱に叩き続ける。背もたれが突然折れて、砕け落ちる。それでも、残った腰掛け部分で殴り続ける。
「開けて。開けてぇぇぇぇぇぇぇっ!」
扉に赤い物を噴き掛けながら咆哮する。大きく振りかぶり、椅子だった物を投げ付ける。それは跳ね返り、私の顔のすぐ横を掠めるように飛んでいき転がる。私は肩で息をしながら扉を見る。穴が開いている。そこから光が漏れている。私の拳ですら通らないような穴だけれど、確かに開いている。それに扉が少し向こう側へ撓んでいる感じがする。もしかすると錠が壊れかけているのかもしれない。扉から離れ、助走をつけて体当たりをする。金具が拉げる音がする。私は微かに呻き声を上げて、その場に崩れ落ちる。肩を撫で、痛みが治まるのを待つ。その間に、霞む目で自らの姿を見る。白かったネグリジェが、今では白い部分を見つけるのが困難な程真っ赤に色付いている。そんな私自身を見て、ほくそ笑む。これで良いのだ。真っ白い世界はこれで終わるんだ。髪以外の白かった部分も赤く染まり、過去とは違う私になるのだ。そう思うと不思議と力が出た。よろよろと立ち上がり、扉から離れる。部屋の中を見渡し、小さく咳をする。
「さようなら、私の白い部屋。」
扉の方へ振り返る。両開きの扉は大きく歪み、扉と扉の隙間から光が見える。私はそこ目掛けて、思い切り突進した。大きな音と全身に走る痛み。私は扉をぶち破り、その勢いのまま、扉の向こう側へ倒れ込む。苦痛に顔を歪めながらも大破した扉を認めると、私は嬉しさから声を上げた。
「出られた。あの部屋から外の世界に!」
扉の先は、細長い通路になっていて、通路の先に出口が見える。微かに人の声や足音が聞こえてくる。立ち上がろうとするが、何故か力が入らず、仕方なく這うようにして出口を目指す。
出口に近付くにつれ、段々と外の景色が見えてくる。どうやらこの通路は何処かの大通りに繋がっているみたいで、通路の前を横切っていく多くの人影がある。歩道の先には車道があり、自動車やバス、トラック等が行き交っている。
「もう少しで外に出る。」
歩道に敷かれたタイルの形が見えてくると、嬉しさから思わず腕に力が入った。その瞬間、体重を掛けた左腕が硝子細工のように砕け散った。でも、痛みはない。左腕がないのも気にせず、右腕だけで進もうとする。私自身は気が付いていなかったが、この時、私の身体には無数のひびが入り、両足もすでに粉砕して無くなっていた。まるで壊れた人形のような風体で出口へ進む。
やっとの思いで出口に到達した頃には、もう上半身だけになっていた。そうまでして進み、抜け出した通路の先は、汚い灰色に塗れていた。空を隠すような高層ビル。土の見えない灰色の道。排気ガスが混じり汚れた空気。
「ああ、青く澄んだ空が気持ち良い。」
車のクラクション。客引きの声。室外機のモーター音。何度も同じ文句を繰り返す広告。すれ違い様に赤の他人へ浴びせる罵声。そこかしこから大音量で流れる統一感のない音楽。
「鳥の囀りが聞こえる。何の鳥かしら。」
耳を澄ましていた私は、ふと歩道の脇にある花壇に、赤く咲いた花達を見つける。そして、それが間違いなく薔薇である事を認める。夢にまで見た本物の薔薇がすぐ近くにある。私はその薔薇の色を、匂いを、感触を確かめる為に再び腹這いになり、ずりずりと歩道を進み始める。
「遂に作り物ではない、本物の生きた薔薇を見られるのね。」
目を輝かせ、薔薇に見入る。右手を一生懸命に動かし、薔薇に近づこうとする。
吐き捨てられたガムやまだ火が付いたままの煙草の吸い殻を引き摺りながら薔薇に向かって這う。風で転がって来る空き缶やファストフードの包み紙を払い除けて花壇へ向かう。白いご飯が入ったままの弁当箱が積まれたポリバケツの横を進む。スマホを操作している歩行者に右手を踏まれる。踏んだ人も私も、何事もなかったかのように自らの進む場所へ向かう。
「信じられない。信じられない。」
手を伸ばせば、薔薇に届く所まで這ってきた。
私は匂いを嗅ごうとして、花のうてなに手を添える。しかし、私と違って生きている美しいこの薔薇を手折るのは余りにも可哀そうで、理不尽に感じられたので、そっと手を離した。代わりに花冠の輪郭をなぞる様にして、指の腹で撫でる。
一時間前には想像も出来なかった場景。私が薔薇を愛でている。それだけで私は満たされた。譬え身体が朽ち果てようとも。薔薇の赤を眼に焼き付け、私は瞼を閉じる。全身の力を抜き、地面に伏す。身体が徐々に風化していくのが分かる。
私は死ぬのだ、この酷く醜い世界で。
「私は外の世界に出たんだ。薔薇を見たんだ。この美しい世界で死ぬんだ。ありがとう、神様。」
誰か私に花を供えてくれないだろうか。そうすれば、私は完璧に死ねるのだから。
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