Terrarium

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 私は天窓に開いた穴を見ていた。温かな日差しを受けながら。私の背丈の何倍もの高さにある天窓に開いた穴は、一見しただけではわからない程に小さい。天窓を直す術を持たない私は、ただこうしてその穴を眺める事しかできない。短く咳をする。あれ以来、咳が止まらない。今はまだ痛みは伴わないけれど、すぐに喉を痛めてしまいそうで心配になる。そうなると、喉に意識が行き、余計に咳が出る。その悪循環を断ち切ろうとして、天窓の穴を見ていた。ギザギザにひび割れたガラスは、まだ時折その破片を下へと落としていた。陽の光を反射して輝くそれは、まるで空の涙のよう。本の中では雨が降るとこういった表現をするけれど、空から降る雫を見た事が無い私にとっては、こちらの方がしっくりくる。雨なんて、天窓にぶつかり、音を立てる騒音でしかない。天窓を濡らし、空を歪める邪魔者だ。天窓から入ってくるものは、色だけで良い。光だけで充分。窓とはそういう物だから。けれど、昨日の来客は別だ。あの鳩は、私の心を揺さぶり動かした。まさに天からの贈り物だった。箱へ視線を移すと同時に、また咳をする。ああ、嫌になる。咳が止まらない。折角の気分が台無しだ。オルゴールを手に取り、発条(ぜんまい)を一気に巻く。箱の傍らに美しい旋律を奏でる手の平サイズの箱を置き、その箱から流れる音で私の口から出るノイズを掻き消す。喉の調子が気になって仕方がない。天窓に目をやり、青い空と白い雲を見る。また天から心躍るものが降りてこないかしら。そう思いながら、日差しの強さに目を細める。その時、割れた窓から何か薄べったいものが、ひらひらとこの部屋の中に舞い落ちてくるのが見えた。ひらひら、くるくる。あっちに行ったり、こっちに来たり、落ちる場所に迷っているかのような動きをするそれは、次第に形や色を判別できる位の高さにまで降りてくる。私はそれを見て、息を吞む。落ちてくる物に目が釘付けになり、天を仰いだまま、天窓の下へと近づいていく。宙を舞うそれに合わせて、私も一人で円舞曲(ワルツ)を踊る。手の平を上へ向け、受け止める用意ができた私は、無事それを手中に収める。信じられなかった。舞い降りてきたそれは、薔薇の花弁(はなびら)だった。見間違えるはずがない。頁の端がすり減る程、何遍も何遍も図鑑に載る写真を見てきたのだから。本物の赤い花弁が、私の手の中にある。その事実に、溜め息が出る。親指と人差し指で花弁を摘み上げる。柔らかく弾力がある。まるで生き物の肌のようだ。もっと硬い、触れれば崩れてしまいそうなガラスのようなものを想像していた。だって、棘が守る花だもの。容易には触れられない、繊細な花だと思っていた。ああ、これが薔薇なのか。鮮やかな赤に感嘆の声が漏れ出る。この白い世界に訪れた新しい色。それをどれぐらいの間、眺めていただろう。日が暮れ、その赤色が見えなくなるまでずっと眺めていた。薄暗い闇の中、私は手探りでランプを探し当て、灯を点ける。他にも舞い降りてきていないか、天窓の下を照らす。しかし、照らし出されるのは白い床ばかりで、何も落ちていない。仕方なく、たった一片(ひとひら)の花弁を、大事に握り締める。これは私にとってとても大切な物。失ってはいけない。だから、また何処かへ舞っていってしまわぬように、白いハンカチーフの間に挟み、化粧台の上へそっと置く。宝物ができた。幼い子供のように心がウキウキする。何かの間違いではないかと心配になり、ハンカチーフの端を持ち上げ、中を確認する。大丈夫だ。夢や妄想ではない。確かに赤い花弁がハンカチーフの中に収まっている。何度かそうやって繰り返し、中身を検めた。それ程に信じられない出来事だった。この日の夜は長かった。気分が高揚して、ベッドに入った後もなかなか寝付けない。寝返りを何度も打つけれど、視線の先は変わらず化粧台の方へ向けられる。天蓋で化粧台は見えないけれど、花弁が気になり、そちらの方ばかり見てしまう。それでも、夜も更けてくると瞼が重くなり、徐々に瞬きの間隔が短くなる。駄目だ、もう眠ってしまう。私は花弁へおやすみを(ささやき)きつつ眠りに就いた。
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