23人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ
渡部は「わたなべ」と読む。
珍しいねと話しながら、内見へ向かう車の中でそれでも何度も間違えて「わたべさん」と呼んでしまう私を、大翔は「わたなべさん!」と突っ込み、コントのように繰り返した。わたなべさんも、運転しながら「よく間違えられるんです」と笑っていた。それから私たちの会話の中で「わたなべさん」は何度も登場したし、忘れるわけない。
「おい、平気か」
ふらつく足取りでベランダの方へ向かう私の左腕を男が掴もうとする。
「……触らないで!」
その手を振りほどき、私は自分でも驚くくらいのひどくヒステリックな声で叫んだ。
「大翔……じゃない……」
男は何も答えずに真正面に私の顔を見つめ返す。泣きたいのはこっちの方なのに、何故だか男の瞳は少し潤んでいて、必死に言葉を探している中に諦めのような表情があった。
四月の、昼の温かい日差しが男の顔を照らし、その肌や骨格が大翔のものではないことを改めて私は確認する。
「あなたは……誰?」
その瞬間、ベランダ越しに見える新緑の狭間から木漏れ日が、私の足元でまるで泳ぐように無数に揺らめくのを見た。
生きている。
それは、命の光だった――。
――知ってる? 木漏れ日って、こうやって地面に投影されるのは、全部太陽と同じ形なんだ。
私の足元で煌めく小さな太陽たち。その輪郭を優しくなぞる大翔――。
あの時微笑んだはずの大翔の顔を、今私はどうしても思い出すことができない。そのかわり、愛おしい大翔の魂をこの柔らかな白い光の中に見た。
そうだ。
大翔はもう、いないのだ。
「思い出しましたか」
顔を上げる私の目の前にいたのは、翼君だった。大翔の双子の弟――。
大翔は私がシンガポール出張へ行く直前、交通事故で亡くなった。
やっと……思い出した。
失意のまま旅立った私は、大翔とあの土地で過ごした日々を思い出す中で、信じられないが、その記憶をどこかへ置いてきてしまったのかもしれない。
「土曜日に会いたいと、兄のスマホにあなたのメッセージが届いて、もしかしたらと会いに来たんです」
「……ごめんなさい」
言葉を絞り出すと翼君は続けた。
「いえ、謝るのはこちらの方です。今日、兄がまだ生きていると、そう信じているあなたに会って、その、どうしても言い出せなかったんです。あなたと兄の最後の時を、僕が告げる資格はありませんから……」
そう言って伏せた翼君の瞳は、どこか大翔にやっぱり似ている気がした。
「ありがとう……」
一色ではない、この、大翔の魂を映し出す鮮やかな緑に連なる淡い光は、四つの季節を巡るこの土地では形を変えていくのだろう――。
移りゆくものに抵抗するのは馬鹿げているのに、私はどうしようもなく、どこかに置いてきた大翔との最後を探しに行くため、一ヶ月後、再びのシンガポールへと旅立った。
夕方空港に着いた瞬間からひどいスコールだった。
ジメジメとした、日本の七月がずっと続いているような天気。
「旅行か?」
空港からホテルまでのタクシーの中で運転手が尋ねる。
「ええ、そんな感じ」
「天気はいっつもずっとこんなんだよ。いつ雨が降るか分かったもんじゃない。でも、嫌いにならないでくれよ」
そう気さくに笑った。
「ならないわ」
私は微笑み返し、ついこの間来たばかりなのにすっかり違って見える、窓の外の景色を眺めていた。
翌日、よく晴れたので植物園へ向かう。
家族、恋人同士、友人で――。みな思い思いの時間を、乾いて黄色がかった緑も、鮮やかな緑も一様に愛でながら過ごす。
ここは色々な国の言葉で溢れているのに、くしゃっと笑った顔はみんな一緒で、愛おしい誰かに向けられている。大翔とアナと過ごしたあの時間が戻ってくることはもうないのに、私はまだあの時のまんま、この空が私たちを包んでくれる気がしてならない。
さっと髪をなびく風が、乾いた芝生の匂いを運んでくる。
見上げるとそこには、生い茂る木々の合間を縫い、眩いほどに照る木漏れ日が降り注いでいる。その一つ一つに視線を移しながら、思う。
あなたに会いたい。
どうしようもなく愛おしい――。
優しく穏やかで、春の陽みたいに私の肌に染み渡る深いあなたの温もりは、決して変わることなくいつも同じ形を映し出す、木漏れ日のよう。
でも必ず、来るのだ。
雨が降り、消える時はやって来るのだ。
私はゆっくりとしゃがみ込み、足元に泳ぐ光たちの、丸みを帯びた柔らかな輪郭をそっとなぞる。
あなたはもうそこにはいないのに、その小さなきらめきは私の指先に触れてはまた輝き続ける。
それは、この国の熱っぽい空気に反射して絶え間なく揺らめく白い魂――。
雨はまだ、降りそうにない。
《了》
最初のコメントを投稿しよう!