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ワタルが田中さんとキッチンに立っていた。
仕事がオフの日は、田中さんに料理を教わっていたのだった。
「ワタルさんは筋が良いですね。手先も器用だし」
嬉しそうに田中さんが言うとワタルは照れる。
「僕、泉水さんに事務所を立ち上げて貰って、モデルとして仕事をさせて貰えて本当に嬉しいんです。だからせめて美味しい料理で泉水さんを癒したいなって」
全ては泉水が喜ぶ顔を見たいためだった。
「坊ちゃんは幸せですよ。ワタルさんにそんなに愛されて。ワタルさんは優しくて、人の痛みがわかる人だから、私も本当に坊ちゃんと一緒にいてくれて安心します」
田中さんがまだ、泉水を坊ちゃんと言うのをワタルは笑う。
「ねぇ、舞子さん。そろそろ泉水さんを坊ちゃんと呼ぶの卒業しませんか?泉水さんって名前で呼んであげてくださいよ。もちろん、泉水さんが僕にそんな事言ったことはないですよ。でも舞子さんがいつまでも坊ちゃんて呼んでいたら、舞子さんに甘えられないと思うんです。ダメですか?」
優しくワタルは言う。
「つい癖で」
クスリと田中さんは笑う。
「私が坊ちゃんを泉水さんと呼んだら、坊ちゃんはどんな顔をすると思いますか?」
ちょっとだけ不安そうに田中さんは尋ねる。ワタルは優しく微笑んだ。
「きっと大喜びすると思いますよ。今夜から呼んでみてください」
ワタルの言葉を信じて、田中さんは決心した。
「つい坊ちゃんと呼んだらどうしましょう」
「んー。罰ゲーム考えておきます」
ワタルの答えに田中さんは笑う。
2人は早く泉水が帰ってこないかと待ち遠しかった。
泉水は仕事を終えて、流星に見送られて車に乗り込んだ。
流星はこの後、裕貴と食事の約束をしていたので待ち合わせ場所に急ぐ。
信号待ちをしていると、目の前に見覚えのある男が立っている。
流星は気がついたが、相手の男、疾風は流星に気がついてない。
流星は信号が変わるのをドキドキしながら待った。
気がつかずにすれ違えるだろうかと考えた。
信号が変わる直前、疾風も流星の存在に気がついた。
じっと流星を見つめている。
前にカフェで会ってから、どれぐらい経ったのかも忘れるぐらい久しぶりだと思った。
信号が変わった。
流星は歩き出した。
疾風も歩き出した。
ゼブラゾーンの真ん中でお互い立ち止まる。
信号が点滅しだすと、疾風は流星にフッと微笑んですれ違って歩き出した。
流星は振り返り疾風を追う。
結局元の場所に流星は戻ってしまった。
疾風の腕を流星は掴む。
「疾風、ごめん。姿見たら、つい」
咄嗟に口に出たのはそのセリフだった。
「元気そうだな。年下の恋人とは、変わらずか?」
疾風の問いに流星はコクンと頷いた。
「ありがとう」
流星の言葉に疾風はびっくりする。
「ちゃんとありがとうって言えてなかったから。前に会った時も正直、疾風と別れたこと後悔してたから。でも、もう後悔してない。疾風との付き合いも、ちゃんと言葉にはできなかったけど、俺はお前を愛してた。だから、ちゃんとありがとうって言いたかった」
流星の真っ直ぐな目に疾風は微笑んだ。
「俺こそ、ありがとう」
疾風がそう言うと、流星はにっこり笑った。
「さよなら」
「さよなら」
お互いにそう言うと、疾風は流星に背を向け歩き出した。
流星も疾風に背を向けた。
信号が変わって流星は歩き出す。
2人の距離が段々と遠くなる。
疾風は歩きながら真幸を思った。
真幸に、ありがとうもさよならもちゃんと言えてないと思った。
きっとまたいつか会えると疾風は信じている。
その時は、今みたいにきちんと向き合おうと心に誓った。
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