冷たい水

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今日は御笠グループの化粧品会社のCM撮影に、珍しく泉水も撮影スタジオに見学に来た。 CM出演者は、今若者に人気ナンバーワンの女優とメンズモデル。 泉水はその二人を見つめていたが、二人を見つめる“フリ”をして、本当はメンズモデルのワタルを見つめていた。 「あの二人良いね。流石、人気あるのも頷ける」 泉水が褒めるとCMディレクターは喜んだ。 「社長、そろそろお時間です」 流星が泉水に耳打ちする。 ただそれだけで、泉水の耳から身体まで熱くなった。 「分かった」 冷静を装い、泉水は撮影現場のスタジオを出て行き、その後ろ姿をワタルはジッと見つめていた。 オフィスに戻ると、泉水は流星が耳打ちした右耳を撫でる。 耳だけで感じるとか、どんなプレイだよ。 苦笑して、それでも泉水は耳を撫でた。 流星にされる事だけで、何にでも感じてしまう自分。 しかし、想うだけでは心の渇きは癒されない。 デスクの書類にサインをしようと、スーツの内ポケットからお気に入りの万年筆を出そうとしたが、その万年筆が内ポケットに入っていない。 慌てて泉水は流星に内線をした。 「私の万年筆が見当たらないんだ。どこで使ったか覚えてる?」 『いつもお使いのですよね』 流星はしばらく考え込んでいる。 『あ、先ほどの撮影現場でしょうか?控え室で書類書いてましたよね』 流星の記憶に泉水も思い出した。 『電話で問い合わせてみます』 流星との会話を終え泉水は内線を切った。 ため息を吐く。 あの万年筆は将からの就職祝いだった。 「社会人になるとこれぐらい持ってたほうがいいから。今時?って思うかも知れないけど、使う文房具にこだわり持ってる男って、ちょっとカッコイイでしょ。泉水にはずっとカッコイイ男でいて欲しいから」 将を思い出して、泉水はフッと笑った。 しばらくして内線が鳴った。 「あった?」 泉水が尋ねる。 『それがスタッフの話だと、さっきのモデルのワタルという子が持って帰ったらしいです。とりあえずワタルの事務所に連絡してますから』 やれやれと泉水は思った。 ワタルの顔を思い出す。 大学中からモデルを始めたと、CMディレクターが言っていたのを思い出した。 背は自分より高かった。 泉水が180弱なのに対し、ワタルは185はある感じだった。 今時の小さな顔に細長い手足。 透明感がある、あっさり目の整った顔。流星とはまた違うタイプのイケメンだった。 また内線がなる。 「やっぱり、あのモデルの子が持って帰ってたか?」 『はい。こちらに届けてくれると言っていたので、来たら私が受け取っておきます』 泉水は少し考えた。 「ああ。いや、直接受け取りたい。来たら私の部屋に通してくれ」 もう一度会いたかった。 直接声が聞いてみたかった。 別に口説こうとも思ってはいないが、何故だか泉水の興味を引いたのだった。 そして夜の21時近くに、ワタルは泉水のオフィスに到着した。 もう受付も閉まっていたので、警備室から連絡を受けた流星がワタルを迎えに行った。 「すごいビルですね。ここが全て本社ビルですか?」 驚きながらワタルはキョロキョロと見渡す。 「下の飲食店は全てテナント。途中にもテナント入っているけど、それは全て我が社の系列だけどね」 エレベーターは地下から一気に社長室のある階まで上った。 「社長。ワタルさんがお見えになりました」 ドアをノックして流星はワタルを中に入れると、流星は部屋へは入らずドアを閉めた。 「わざわざ届けさせてすまなかったね」 デスクに座ったまま泉水は言った。 「いえ。僕がスタッフに預ければよかったのに、持ち出してしまったから」 ワタルが恐縮すると、泉水は立ち上がりワタルの前に立った。 「ありがとう」 泉水は微笑んで右手の掌を差し出した。 ワタルは無言で、泉水を見つめたまま万年筆を返す。 泉水がスーツの内ポケットにしまうと、ワタルは泉水のデスクの後ろの広いガラス窓に映る自分を見つめる。 「……僕を覚えていませんか?」 ワタルの言葉に、泉水はビクッとした。 「え、と。どこかで、会ったことあった?」 そう言いながら、泉水はいつ抱いた子だったか思い出そうとしたが、全く記憶になかった。この身長の美少年を何人も抱いたことが、印象に残っていない原因でもあった。 「2年前。僕が21歳の時です。横浜のホテルで。一晩だけだったから覚えてませんよね」 2年前と聞いても思い出せない。SNSを始めたばかりで、しかも“一晩限りの恋人”が目的だったから。 「髪型も変わったし。あなたは遊びだったでしょうし」 泉水はまさかこんな場所で、過去に抱いた少年と再会するとも思っていなかった。じっとワタルを見つめる。 そして興味本位でワタルを呼んだ自分に後悔した。 「撮影現場であなたを見かけた時、直ぐに分かった。この万年筆を控え室で見つけた時やっぱりあなただと確信した。あのホテルの部屋で使っていたのを見ていたから。まさかこの万年筆をきっかけに本当にあなたと会えると思ってなかった」 「2年前の、しかも私なんてオジサンの顔、よく覚えていたね」 自虐的に泉水は作り笑いで言った。 「忘れません。あの日の夜のことは。たった一晩だけの相手だったけど、僕の身体はあなたを忘れられなかった。一度きりって言われてたから、その後僕のこと拒否しても仕方ないと諦めていたけど、まさか御笠グループの社長だったとは」 バツが悪くて泉水はワタルを見れない。 「今夜、この後、僕と過ごしてくれませんか?」 突然の誘い。これはどう考えても抱いてくれと言われているようだった。 「この後は、ちょっと」 予定などなかったが、まさか自分の企業の商品のCM出演者を抱くわけにいかない。 「もう拒否しないで下さい。別に脅迫しようと思ってもいません。ただ、もう一度あなたに抱かれたいだけです」 やはり考えた通りドンピシャだった。真っ直ぐなワタルを見ながら、ドアの向こうにいる流星を思った。 この会話が聞かれていたらと思うと、気が気ではない。 「御笠泉水さん」 ワタルにフルネームを呼ばれて、泉水はビクッとした。ワタルが近づいてくる。 「ちょっと、待て。ストップ」 取り乱す泉水を見て、ワタルは笑う。 「隣の秘書さんに、聞こえるようにお話ししましょうか?一応気を使って、小さな声で話してるつもりですが」 「それ、脅迫?」 「はい。これは脅迫です。今夜、一緒に朝まで過ごしてください」 泉水はため息をついた。 「分かった。時間も遅いし直ぐ近くの六本木のホテルを二部屋とっておく。一部屋は君の名前で取っておくから、名前を教えてくれ」 「サドワタルです」 本名かは分からなかったが、泉水はスマホを出すとホテルに電話をかける。 「御笠だ。支配人を頼む」 保留になって泉水は窓ガラスに映るワタルを見つめる。ワタルの視線が痛いほど泉水を見ていた。 「御笠だ。悪いんだけど、今夜二部屋お願いしたい。一つはスタンダードでいい。宿泊客はサドワタルだ。もう一部屋はスイートで私の名前で。ああ、ジュニアスイートでもいい」 スマホを切ると、泉水はワタルを見つめる。 「有名人の自覚はあるよね。ホテルで君がバレても大丈夫な様にわざと二部屋取ったんだから、とりあえず部屋で連絡を待ってくれ。私のスマホの番号だ。後でワン切りしておいてくれ」 名刺の裏に、万年筆で番号を書くとワタルに渡す。 「地下の駐車場にマネージャーがいるのかい?」 ワタルは頷く。 「帰ってもらいます」 「そうしてくれ。今夜のことは、私と君の秘密だ」 「分かってます」 泉水は内線で流星を呼ぶ。 再び流星が部屋のドアをノックして開けた。 「ワタル君がお帰りだ。下まで送ってあげてくれ。後、私は今夜タクシーで帰る。運転手には帰るように伝えてくれ」 泉水が一切流星を見ないので、流星は泉水とワタルに何かあったのかと勘ぐる。しかし深くは聞けない。 「かしこまりました。ワタルさん、行きましょう」 ワタルは一礼すると流星と部屋を出て行った。 泉水はため息をつくとデスクに腰掛けた。 「まさか、こんなツケが回ってくるとは」 椅子にもたれかかり天井を見つめる。 ワタルとの夜が正直怖かった。
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