今の僕へ

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今の僕へ

「過去の僕」に手紙を書いた後、「未来の僕」にではなく「今の僕」に手紙を書く必要があると思い、誰も読むことは無いであろう文章を書いている。  銀行はマイナス金利で収益も下がった。リストラも進んでいる。今の私は50代だが、定年はいつになるだろう。60歳であっさり首を切られるだろうか、それとも年金支給年齢を加味して65歳や70歳まで働けるであろうか。金融庁が年金支給とは別に2000万円貯めなければならんと云う経済学的に正しい報告書を上げたら、何故か謝罪させられていた。  今、未来が見えない。  幸か不幸か、子供達はまだ若い。私よりも将来の日本には不安を抱えて生きていくのだろう。  今、この時も自分の残り時間は減っている。今だった今は過去に、毎分毎秒「人の昔」に変わる。 「借りる」は「人の昔」って話を「過去の僕」に教えたからか、「人の未来」を表す漢字が気になって検索してみた。 「佅(人偏に未)」って云う字は見つかったが、どんな意味なのかよく分からなかった。あまり使われていない字みたいだ。  ただ、「人」と云う字を冠にして「未」の頭に被せると「余」って考えることが出来た。ちょっと違うけど、似ていたからだ。 「余り」が「人の未」なら、未来は残された時間を表していると考えることが出来る。  私の「人の余り」=「余命」は幾つまでだろうか。100歳以上の天寿を全う出来るだろうか。それとも不運にも事件や事故、災害などに巻き込まれて、あっさり命を散らすだろうか。自分はすぐに死なないまでも、妻が病気を抱えるかもしれないし、認知症を患うかもしれない。  ただ、人間は、今この瞬間を精一杯生きなければならないのだと考えている。  だから、明日の私も会社に行くだろう。 「今の僕」には書ける言葉が少ない。  きっと、今の自分に自分から言葉を掛ける必要など無いからかもしれない。自分のことなど自分がよく分かっているものだ。 「未来の僕」がこの文章を読んだら、どう思うだろう? 「過去の僕」がこんな文章を書こうと予測出来ただろうか? 「今の僕」は、ただ文章を書き続けるだけだ。 「余り」の人生を「人の昔」に換えている自分を「(ほこ)」りながら。 令和元年6月15日 自宅にて                   今の君 佐藤賢一より
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