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午後から、二人で散歩に出た。 住宅街を歩いていけば川に出るのをキシが調べて、このへんを走るのと聞いたが、ランニングで川まで行ったことはなかった。 住宅街を抜けるまでに、また長い時間歩いた。昨日も走っていないのが気になって、一応ランニングシューズを履いてきたけど、体がふらふらして、まともに走れる気はしない。 陽射しの強い土手に上がってから、川べりの道を行って、河原に下りる古びたコンクリートの階段に並んで座った。 「キシさん、枕変わると眠れない?」 「何で」 「あんまり眠れてないんじゃない」 「どっちかって言われたら、自分ちじゃないと安眠できないかな」 キシは片手を上にあげて、もう片方の手で肘のあたりを掴んで伸びをした。 「アナタもあんま寝てないってこと?」 僕は、寝たか寝ないかよくわからなかった。キシは、たまに僕の腕や脚を撫でるので、眠れないのだろうと思っていた。 バイブレーションが響いて、キシがポケットに手をやる。 「すまん、ちょっと出る」 スマホの画面を見て立ち上がり、 「もしもし。はい、何?」 と言いながら、彼は足早に階段を下りていった。 河原まで下りた後、一度僕を見上げて笑顔になり、ゆっくり川の方へ歩き出す背中を見ていた。昨晩、かすかな灯りに照らされたキシの横顔を見て、好きでたまらないと思った時の動揺を思い出す。 キシは川沿いより手前で立ち止まり、スマホを耳に当てたまま、下流の方に向いて、少し離れた広場で子供たちが野球をするのを見ているようだった。 時々考え込む顔になり、口元が動き、笑って顔を伏せる様子を、川の濃い青を背景に、僕はいつまででも眺めていられるだろう。 見えない場所に付けられた痣から、まるで水を注ぎ込まれたようにあの振動、彼に触れる時のあの熱さが、体の内側に染み渡っていくのを感じて、僕は震え、脚を固く閉じた。 電話を終えたらしく、スマホを耳元から下ろし、彼はまたこちらに背中を見せて川の方を向いた。 風が急に強く吹いて、草の匂いが運ばれてくる。誰かと寝た後の胸に穴が開いたような虚しさは、甘い気怠さに形を変えて、全身を包んでいた。キシの感触が体のどこかしこに残っているのをぼんやり数えた。キシは、僕が僕だと思っている自分を形のないものにしてしまう。 気配で顔を上げると、キシは横に座っていた。 「眠いんだな」 「電話、大丈夫?」 「兄貴から、明日の打ち合わせのことで。結局、今は兄の仕事を手伝ってる」 お兄さんは、元同僚や友達と共同で会計事務所を経営しているという。 「すげ。そしたら、ずっとそこで働く?」 「いや、とりあえず。腰掛け。俺んち色々あるんだけどね、とにかく自営業の家系なんだよ」 珍しく、うんざりした口調だった。 「父方も母方も両方。あ、父親が再婚した人も、か。それで親戚が山ほどいて、見渡す限り勤め人が見当たらない」 「はあ」 「就職決まった時、いつ辞めるんだってあっちこっちから聞いてくるのには、参ったね」 キシは風に吹かれる髪の毛を両手で押さえて、整えた。 「ふうん。キシさんは会社継ぐために修行してる、みたいなイメージだった」 「向こう行く前はそんな風に言ってたけど、今となってはあんまり。挫折したというかねえ」 そう言いながら、キシは笑っていた。 「俺自身は、勤めたら勤めたで、楽しいこと多かったんだよ。アナタに会えたしね」 「そうか」 さりげなく聞こえるように、相槌を打った。 「そうか、じゃないだろ」 川向こうの土手に並ぶ木々が緑の枝を揺らすのを見て、沈黙が続くうちに、ふと思いついた。 「うちの会社、今、再雇用促進とかやってるよ。キシさんなら、すぐ戻れるんじゃない」 「えっ?」 「え、そんな驚く?」 彼は面白そうに僕を眺めた。 「お前とまた同じ会社で働くの?」 「あっそっか。そこは考えてなかった」 あの頃の出来事が、いくつか同時に思い出された。 「でも、自営業の家系だからって、自営業やる必要ないよね」 キシは可笑しそうに笑い声を立てた。 「そりゃそうだな」 「なんか、プレッシャーがあるのはわかるんだが。それよりキシさん本当に営業向いてたから、いい会社に入ればいいのかなと思って」 キシは、笑顔のまま何も言わなかった。僕はまた木々を眺めた。太陽が傾いたせいで、さっきより水面が輝いて目に映った。 「上野くん、家族は?お姉さんがいるんだっけ」 夢をみたかということ以外、キシが何も質問しないことに、昔の僕は傷つきながら、それを自覚することはなかった。でもあの頃、今みたいに聞かれても、夢の質問と同じで、黙り込むことしかできなかっただろう。 「姉は、うん。もう今はどこにいるか知らないけど、いた」 キシがこっちを向くのがわかった。川面は白い光を浮かべて、僕たちの前を右から左へ流れていた。 「僕の父親が暴力ふるう人で、ちょっと事件みたいになって、僕が子供の頃に母親と姉と僕は逃げた。夜逃げみたいに。母親はかなり後で再婚したけど、僕の父親がおかしかったんで、見つからないようにずっと気をつけている」 キシの方を見かえると、目が合った。 「それで、僕はSNSとかやらない。何かの拍子で居場所がバレたら、僕はいいとして、母親とか殺されるから」 ネットを避ける理由を話したつもりだったが、父親に殺されるというのは、口にするとあまりに非現実的で、すぐに後悔した。人に向かってこの話をしたのは初めてだった。 「と、いうことです。ごめん、家族のことはそんな感じ」 慌ててそう付け加え、両腕を高くあげて伸びをした。肩の力を抜いて右隣のキシを見ると、まるでどこか痛むような顔だった。何か言おうと考えているうちに、彼は僕を見つめ、 「お前も暴力ふるわれてたのか」 と聞いた。 「うん」 「殴られた?」 「殴られたし、蹴られた。首絞められたり、窓から投げられたり」 キシは口の中で、窓から?と言うと、自分の膝に両手を置いた。 「部屋の窓から、外に。あと、風呂に沈められたり、縛られたり。寝てる時にはさみで髪をこう、ザギザギって切られたりね」 僕が、じゃんけんのチョキの形で自分の髪を挟んでみせると、 「なんでそんなことを」 とキシは呟いた。 「さあ」 止まらなくなって言ってしまったが、言っていないことはたくさんあった。例えば、髪を切られたのは、僕が女っぽかったからだ。 キシと顔を見合わせ、僕は仕方なく笑った。 「気分悪い話でごめん、やめときゃよかった。人に話したことなくて」 「お母さんとは、連絡取ってるの」 「いや。金だけ振り込んでる。この話、やめよう」 僕は階段から勢いをつけて立ち上がった。 「キシさん、そろそろ帰らないといけない?駅まで送る」 「あ、それだけど」 ゆっくり立ち上がったキシは、片手で眼鏡の位置を直した。 「今日は、俺んち来ない?明日、うちから会社行きなよ。近いし」 驚いて黙っていると、 「アナタがよければ」 と言いながら、キシは手を伸ばして僕の顔に触れた。周囲に人影は無かったが、心臓が跳ね上がった。 「ていうか、今離れられる?俺、まだ一緒にいたいんだけど」 キシは、明るい顔つきの人で、その目の表情は様々に変化するものの、基本的に愉快そうに世界に向かって開かれていた。お前のことならよく知っている、とでも言いたげな、獰猛な目つきをすることがあって、僕のことなど何も知らないうちから、キシはたまにその目で僕を見たと思う。彼は無自覚だろうけど、その誘惑に抵抗することはまるで出来ず、否応無しに引きつけられた。 今見ている彼の目は憂いを帯びて、深い青に染まっていた。晴れ渡った空を背景にしているからだろう。初めて見るその目に、僕はやっぱり吸い寄せられた。 「行っていいなら。そうする」 「そうしなさい」 キシは笑い、僕の頭をぽんと叩いた。
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