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4
午後から、二人で散歩に出た。
住宅街を歩いていけば川に出るのをキシが調べて、このへんを走るのと聞いたが、ランニングで川まで行ったことはなかった。
住宅街を抜けるまでに、また長い時間歩いた。昨日も走っていないのが気になって、一応ランニングシューズを履いてきたけど、体がふらふらして、まともに走れる気はしない。
陽射しの強い土手に上がってから、川べりの道を行って、河原に下りる古びたコンクリートの階段に並んで座った。
「キシさん、枕変わると眠れない?」
「何で」
「あんまり眠れてないんじゃない」
「どっちかって言われたら、自分ちじゃないと安眠できないかな」
キシは片手を上にあげて、もう片方の手で肘のあたりを掴んで伸びをした。
「アナタもあんま寝てないってこと?」
僕は、寝たか寝ないかよくわからなかった。キシは、たまに僕の腕や脚を撫でるので、眠れないのだろうと思っていた。
バイブレーションが響いて、キシがポケットに手をやる。
「すまん、ちょっと出る」
スマホの画面を見て立ち上がり、
「もしもし。はい、何?」
と言いながら、彼は足早に階段を下りていった。
河原まで下りた後、一度僕を見上げて笑顔になり、ゆっくり川の方へ歩き出す背中を見ていた。昨晩、かすかな灯りに照らされたキシの横顔を見て、好きでたまらないと思った時の動揺を思い出す。
キシは川沿いより手前で立ち止まり、スマホを耳に当てたまま、下流の方に向いて、少し離れた広場で子供たちが野球をするのを見ているようだった。
時々考え込む顔になり、口元が動き、笑って顔を伏せる様子を、川の濃い青を背景に、僕はいつまででも眺めていられるだろう。
見えない場所に付けられた痣から、まるで水を注ぎ込まれたようにあの振動、彼に触れる時のあの熱さが、体の内側に染み渡っていくのを感じて、僕は震え、脚を固く閉じた。
電話を終えたらしく、スマホを耳元から下ろし、彼はまたこちらに背中を見せて川の方を向いた。
風が急に強く吹いて、草の匂いが運ばれてくる。誰かと寝た後の胸に穴が開いたような虚しさは、甘い気怠さに形を変えて、全身を包んでいた。キシの感触が体のどこかしこに残っているのをぼんやり数えた。キシは、僕が僕だと思っている自分を形のないものにしてしまう。
気配で顔を上げると、キシは横に座っていた。
「眠いんだな」
「電話、大丈夫?」
「兄貴から、明日の打ち合わせのことで。結局、今は兄の仕事を手伝ってる」
お兄さんは、元同僚や友達と共同で会計事務所を経営しているという。
「すげ。そしたら、ずっとそこで働く?」
「いや、とりあえず。腰掛け。俺んち色々あるんだけどね、とにかく自営業の家系なんだよ」
珍しく、うんざりした口調だった。
「父方も母方も両方。あ、父親が再婚した人も、か。それで親戚が山ほどいて、見渡す限り勤め人が見当たらない」
「はあ」
「就職決まった時、いつ辞めるんだってあっちこっちから聞いてくるのには、参ったね」
キシは風に吹かれる髪の毛を両手で押さえて、整えた。
「ふうん。キシさんは会社継ぐために修行してる、みたいなイメージだった」
「向こう行く前はそんな風に言ってたけど、今となってはあんまり。挫折したというかねえ」
そう言いながら、キシは笑っていた。
「俺自身は、勤めたら勤めたで、楽しいこと多かったんだよ。アナタに会えたしね」
「そうか」
さりげなく聞こえるように、相槌を打った。
「そうか、じゃないだろ」
川向こうの土手に並ぶ木々が緑の枝を揺らすのを見て、沈黙が続くうちに、ふと思いついた。
「うちの会社、今、再雇用促進とかやってるよ。キシさんなら、すぐ戻れるんじゃない」
「えっ?」
「え、そんな驚く?」
彼は面白そうに僕を眺めた。
「お前とまた同じ会社で働くの?」
「あっそっか。そこは考えてなかった」
あの頃の出来事が、いくつか同時に思い出された。
「でも、自営業の家系だからって、自営業やる必要ないよね」
キシは可笑しそうに笑い声を立てた。
「そりゃそうだな」
「なんか、プレッシャーがあるのはわかるんだが。それよりキシさん本当に営業向いてたから、いい会社に入ればいいのかなと思って」
キシは、笑顔のまま何も言わなかった。僕はまた木々を眺めた。太陽が傾いたせいで、さっきより水面が輝いて目に映った。
「上野くん、家族は?お姉さんがいるんだっけ」
夢をみたかということ以外、キシが何も質問しないことに、昔の僕は傷つきながら、それを自覚することはなかった。でもあの頃、今みたいに聞かれても、夢の質問と同じで、黙り込むことしかできなかっただろう。
「姉は、うん。もう今はどこにいるか知らないけど、いた」
キシがこっちを向くのがわかった。川面は白い光を浮かべて、僕たちの前を右から左へ流れていた。
「僕の父親が暴力ふるう人で、ちょっと事件みたいになって、僕が子供の頃に母親と姉と僕は逃げた。夜逃げみたいに。母親はかなり後で再婚したけど、僕の父親がおかしかったんで、見つからないようにずっと気をつけている」
キシの方を見かえると、目が合った。
「それで、僕はSNSとかやらない。何かの拍子で居場所がバレたら、僕はいいとして、母親とか殺されるから」
ネットを避ける理由を話したつもりだったが、父親に殺されるというのは、口にするとあまりに非現実的で、すぐに後悔した。人に向かってこの話をしたのは初めてだった。
「と、いうことです。ごめん、家族のことはそんな感じ」
慌ててそう付け加え、両腕を高くあげて伸びをした。肩の力を抜いて右隣のキシを見ると、まるでどこか痛むような顔だった。何か言おうと考えているうちに、彼は僕を見つめ、
「お前も暴力ふるわれてたのか」
と聞いた。
「うん」
「殴られた?」
「殴られたし、蹴られた。首絞められたり、窓から投げられたり」
キシは口の中で、窓から?と言うと、自分の膝に両手を置いた。
「部屋の窓から、外に。あと、風呂に沈められたり、縛られたり。寝てる時にはさみで髪をこう、ザギザギって切られたりね」
僕が、じゃんけんのチョキの形で自分の髪を挟んでみせると、
「なんでそんなことを」
とキシは呟いた。
「さあ」
止まらなくなって言ってしまったが、言っていないことはたくさんあった。例えば、髪を切られたのは、僕が女っぽかったからだ。
キシと顔を見合わせ、僕は仕方なく笑った。
「気分悪い話でごめん、やめときゃよかった。人に話したことなくて」
「お母さんとは、連絡取ってるの」
「いや。金だけ振り込んでる。この話、やめよう」
僕は階段から勢いをつけて立ち上がった。
「キシさん、そろそろ帰らないといけない?駅まで送る」
「あ、それだけど」
ゆっくり立ち上がったキシは、片手で眼鏡の位置を直した。
「今日は、俺んち来ない?明日、うちから会社行きなよ。近いし」
驚いて黙っていると、
「アナタがよければ」
と言いながら、キシは手を伸ばして僕の顔に触れた。周囲に人影は無かったが、心臓が跳ね上がった。
「ていうか、今離れられる?俺、まだ一緒にいたいんだけど」
キシは、明るい顔つきの人で、その目の表情は様々に変化するものの、基本的に愉快そうに世界に向かって開かれていた。お前のことならよく知っている、とでも言いたげな、獰猛な目つきをすることがあって、僕のことなど何も知らないうちから、キシはたまにその目で僕を見たと思う。彼は無自覚だろうけど、その誘惑に抵抗することはまるで出来ず、否応無しに引きつけられた。
今見ている彼の目は憂いを帯びて、深い青に染まっていた。晴れ渡った空を背景にしているからだろう。初めて見るその目に、僕はやっぱり吸い寄せられた。
「行っていいなら。そうする」
「そうしなさい」
キシは笑い、僕の頭をぽんと叩いた。
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