51人が本棚に入れています
本棚に追加
3
次の日の朝、洗面所で引き出しを開けた。大きいサイズの部屋着を出すかどうか。
英司が泊まる時のために買った物だった。
キシが自分で探して着ていたのはサイズが合っていなくて、昨日から頭の隅で考えていたが、実際に服を見ると、手が止まった。
やっぱりやめようと思ったところにキシが入ってきて、タオルの上の歯ブラシを手に取りながら、
「大きいやつ、着ていいの?」
と言った。
鏡の中で目が合った。キシは笑顔だった。
「もし着ていいなら、それ着る」
「じゃ出しとく」
僕は服を引っ張り出し、棚の上に置いた。
「サイズまでいつ見た」
「最初に全部見たよ。というか、明らかにそこだけ別のコーナーになってる」
歯ブラシを口に突っ込んだキシともう一度目が合ったが、何も言わずにリビングに戻った。しばらくしてから、
「ほんとに着ていいの」
と洗面所から声がした
「ああ」
キシが深刻に取るとは思っていなかったが、どうも変な感じだ。
ぼんやりしているうちに、後ろから抱きつかれた。僕を捕まえた腕を(英司が着ていたグレーのスウェットの袖を)掴んだ。
「キシさん」
「うん」
「僕も付き合った人がいてさ」
「これ着てた人?」
殊更明るい声だ。やっぱり間違いだったと思ったものの、この服を出さなければ出さないで、何か言われたに違いない。
「思い出してる?」
「服出さなきゃ良かったと思ってる」
「俺が、着るって言ったからね」
キシは腕に力を込めた。
「好きだった?」
英司は一度だけ、キシをずっと忘れないつもりかと口に出して聞いたことがある。
今キシがしているように、後ろから僕を抱きしめながら。馴染みのない街の寂しい夕暮れを見ながら。
僕は、その時の英司の声を時々頭の中で聞くことがあった。
「かなり前に別れた。もう会わない」
キシは無言のまま、僕の首筋に唇をあてた後、いきなり噛んだ。
振り返る間も無く、そのまま肩に歯と舌があたり、きつく吸われた。声が出そうになるのを我慢していると、やがて唇が離れ、
「上野」
と右耳に囁かれた。火花が散るように、脚の方まで何かが走った。
「お前こそ、何もわかってない」
キシは僕を離さず、同じ場所にもう一度唇を押し付けた。
キスマークを付けたがる奴はたいてい付けるのが下手だが、キシのやり方は確実に跡がつくだろう。そして気持ちよかった。
腕の力が緩んだので、肘で体を押しのけた。
「いてえよ」
向かい合ったキシは、
「痛くしたんだよ」
と言い、僕の頭を抱えるようにして、抱きしめた。何か言おうと息を吸うと、腕に力が入るので、言わなかった。背中に回した手のひらで、キシの首の後ろを撫でながら、目を閉じて温かいその体を感じていると、うっすらと湧き上がる欲情と、それとは別の何かが、さざなみのように広がり、触れ合っているところから彼に伝わるような気がした。
「他の人の話は、キシさんが言い出したんだよ」
「うん」
キシはようやく体を離して、僕の肩のあたりを見てから、指先で円を描くように触れた。首を捻じ曲げたが、見えない場所だった。
「アナタのことをどうこう思うわけじゃない。自分がいろいろ苦しいだけで」
キシは穏やかな声で言いながら、その場所を自分の手で覆った。
最初のコメントを投稿しよう!