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6
結局、会社は休んでしまった。今年に入って一日も休んでいないことを上から注意されたばかりだし、キシの打ち合わせは夕方だというので、部屋に篭っていた。
キシと長い時間一緒にいたのはこの時が初めてで、三日の間に僕は少しずつ彼がそばにいることに馴染んだ。生まれて初めて吸った空気の一部が肺の底に死ぬまで残っているように、この週末の三日間を僕はずっと憶えていた。
三日間の終わりに、夢の話がある。
彼が打ち合わせに出かける時間になって、一緒に部屋を出る前に、玄関で靴を履いてから顔を見合わせた。
「お邪魔しました」
「また来て。時間遅くてもよければ、明日の夜とか会う?」
「考える」
キシは軽く音を立てて、僕の額にキスした。
「何を考えんだ」
本当は会うと言いたかったけど、意図せずブレーキがかかった。
「いや、服とか。飽きないかな、とか。キシさん、僕んちだと眠れないんだよね」
キシは首を傾げ、眼鏡の位置を両手を使って直した。
「こっちの方が、お互い職場に近い」
「まあ」
「服は持ってくれば?アナタがそういうの嫌なら、俺が行ってもいいよ。慣れたら眠れるし」
「ああ。うん」
親戚の持ち物で、事情があって他人に貸せなくなったというキシの部屋は、広くて快適で駅から近かった。ここを見た後、僕の部屋に泊まりに来いとは言いづらくて、僕は苦笑いした。
「で、飽きたら言って。いろいろ工夫しますから」
煙ったような重い光を湛えたキシの目が、僕を見下ろした。
「それは、僕じゃなくて」
「俺?俺はしつこいからさあ、全然飽きない」
腰に腕を回して抱きつくと、キシは片手で僕を抱いた。
「上野くん、そんなことが不安?」
「不安、じゃないけど」
「じゃあ、怖い?」
キシにもたれたまま、目を閉じた。今という時間にとどまれないことを怖いと言ってみても仕方がないが、怖いと口にすることさえ怖かった。
キシは僕の顔を仰向かせて、
「明日も会おう。いい?」
と低い声で言った。セックスの時以外にこの低めの声を聞くと、少し得した気になった。うん、と僕は答え、キシは僕を抱きしめて頭を撫でたが、まだ何か言うことがあるのか、体に力が入っていた。しばらくして、彼はふと力を緩めて、
「きりがないから出かけよう」
と笑った。
キシからの長いメッセージは深夜に届いていて、僕が読んだのは次の日の朝だった。
お疲れ様です。無事帰れましたか。
今日出かける前に、夢の話をしようとして、うまく説明できなさそうでやめたけど、気になるので書きます。
普段ほとんど夢は見ないけど、憶えている夢。
砂浜みたいな、広い場所に立ってたら、誰かが急に抱きついてくる。
誰だろうと思った次の瞬間、誰だったか思い出して、名前を呼ぼうとする。でも思い出せない。
名前を呼ばないとその人がまたいなくなると何故か思って、すごく焦る。
でも、その人は別に気にしてないことが、話さなくてもわかる。
その人の後頭部に触ると髪が濡れてる。
やっぱり髪が濡れてるね、と言おうとして、自分が夢を見てたと気づく。
でも、目が覚めたような覚めないような感じで、髪が濡れてるのは血だったかもしれないと思う。すごく辛い気持ちになる。
それで、本当に目が覚めた直後は、血で濡れてたなら弟だと思うけど、そのうちその人は誰でもなかった、夢の中だけにいたと気がつく。名前がわからないのは当たり前で、知らない人だから。
それなのに、夢の中ではその人の髪がいつも濡れてたことを思い出した。偽の記憶なのに強烈に懐かしかった。
向こうにいる間に、二回か三回見た夢。
夢の話終わり。
今朝、急に思い出して挙動不審だったから説明しようと思って。
あと、どんな夢見たか話すのはすごく難しいと今日話そうとしてわかった。昔、上野に毎回質問したのは悪かったかなと思って書いた。
明日、仕事終わったら連絡ください。何か食べたい物あれば決めといて。
返信いりません。
おやすみ。
すごく好きだよ。
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