3時のベルが鳴る前に

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§ 時刻は草木も眠る丑三つ時――深夜2時。 昼間は患者さんたちの憩いの場である食堂兼リビングも、今はただ掛け時計の秒針が暗闇を刻むのみである。部屋の中央、楕円形の大きなテーブルに飾り付けられた花瓶もこの暗闇ではその花の色を知らしめる手段をもたない。60インチの液晶テレビも壁の絵画も冷蔵庫も、誰も彼もが等しく沈黙の秩序を愛おしんでいた。 少なくとも今日という日でなければ、それはいつも通りの光景だった。 「ああ、そうそう。『遠足』のことですがな」 暗闇の中、テーブルを囲んで4つの人影が議論を交わしている。4人の真ん中には一本のろうそくが怪しく揺らめき、部屋全体をほんのりと焙り出していた。 照らし出されたのは異形の怪物たち……という訳でもなく、そこにあったのはこの病棟に隔離されているはずの精神病患者たちの姿だった。老人が一人、壮年の男と若い男が一人ずつ。そして若い女が一人の、合わせて4人。個室に隔離され、夜は鉄扉にがっちりと巨大な(かんぬき)を掛けられる寝室からどうやって抜け出してきたというのだろう。 何もかも定かではないが婦長の言う通り、こんな日は確かに『出る』のである。 先ほどから上機嫌に話しているのは『元締め』と呼ばれる老人だ。朗らかに笑う一方で、伸び放題になった眉毛の奥の眼光は、小虫程度ならば睨み殺せるのではないかと思うほどに鋭い。 彼の目はハゲワシの目。死肉を貪る、ハゲワシの目だ。 そう。何を隠そう彼こそが闇の頭取――裏社会の『元締め』である。 暗闇に集うメンバーに上下の序列は無い。ただしこの老人、『元締め』だけは別格だ。闇のメンバーたちでさえ震え上がらせるような気迫が、この老人の瞳にはあった。 「あの『遠足』は良かったですな。皆ケガもなく、支払いも上々。『りんご』12に、『ヨーグルト』が10。それから『み缶』が5、でしたかな。ああ、あれは良かった」 『りんご』や『ヨーグルト』、あるいは『み缶』などの言葉は無論、全て隠語である。恐らくは何らかの報酬、札束の数や金塊での取引を意味する言葉であろうが、何もかも定かではない。彼らの中にしか通用しない言葉である。 「あの、元少年AだかBだかを()ったやつ?」 若い女の声が尋ねた。少し上ずったスモーキーな声は、彼女がまだ10代後半の少女であることを物語っている。 少女の名前は『(ぬえ)』。本当の名前は何にせよ、暗闇の中ではそう呼ばれている。B棟に隔離された患者の一人だ。黒のパーカーを羽織り、ねこ耳のついたフードを深々と被っている。そして彼女は、10秒に一度はそのねこ耳がきちんとついているか触って確認しないと気が済まない。ねこ耳でもカエルさんの目でも悪魔のツノでもいいから、自分の頭の上に何か乗っかっていないと不安で不安でどうしようもないのだ。風呂の時にだって彼女はいまだにシャンプーハットを使うが、それでは少し頭の上が寂しいと思っているほどだ。 ねこ耳を撫でる少女の右手を見ながら、老人は満足げに頷いた。 「その通り。あれは実に痛快でしたな。そうですがな、皆さん?」 一同が頷く。老人の目は薄く笑っていた。 「やはり人間ではなくなったモノというのは、ああも醜いものですかな」 それは、この老人の持論だった。 『元少年A』のような凶悪犯罪者というものは、通常人間がしないことをする。人間性を欠いた残虐行為を行う。だから、彼らはもう人間じゃない。ヒトを人間たらしめるものは人間性だけなのだから、人間性を失った人間は、人間じゃない。ゾンビと同じだ。姿形は人間でも、その中身はまるで別物である――メンバーたちは常日頃耳が干からびるほどにこの話を聞いていた。 「奴らは人間じゃない」「奴らを殺さねばならん、それが親世代の役目だ」……。 そして、この講釈が始まるといつまでだって老人は湯が沸くほどの熱を持って語り続けるのだった。
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