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壮年の男は苦々しく息をついた。
男の名前は『錦』。寝るときだってスーツを着ているこの男だが、彼にとってスーツは、不安定な精神を固定させる鋳型のようなものだ。冷静沈着なこの男は、こうしてスーツを着こまないと実は日常会話もままならない。そして右手にはいつも分厚い聖書を持っている。いつの頃だったか、彼が熱心に聖書を読んでいるのを見た若い看護師が「教会にお祈りに行かれてはどうですか?」と訊ねたことがある。しかし彼の答えは素っ気ないものだった。「教会には何もいない。信者と、神父、つまり人間がいるだけだ。お墓の中に故人が眠っているわけではないのと同じだ。そこに神はない」――。
彼は横目で時計を確認した。深夜の2時30分を少し回ったところ。残り時間は少ない。3時の巡回時間までには、なんとしても話をまとめなければならない。彼は仕方なく老人の熱弁に水を差すことにした。
「『元締め』……俺たちは貴方を信じ、深く尊敬している」
ご機嫌に舌を回していた老人が首をひねる。急に改まって何だ、という顔だ。
「……なぜ、また俺たちを集めた? 端的に訳を聞かせてほしい」
老人は『錦』を見てすぅぅと目を細めた。空気がピリリと張り詰める。ああ、恐ろしい檄が飛ぶぞ。皆が覚悟したとき、老人は欠けた歯を見せつけるようにして笑った。
「おお、そうそう! 実は『内側』の殺しを一つ、皆さんに頼みたいんですがね」
『錦』はほっと胸を撫でおろした。
老人はもそもそとポケットをまさぐる。テーブルの上、ろうそくの灯りの元に出されたそれは、紙パックのリンゴジュースだった。
「……これは?」
「これは、サヨちゃんからの依頼金ですよ」
「サヨちゃん……?」
戸惑う『鵺』に、『錦』が落ち着いた声で答えた。
「お前が知らないのも無理はない。小夜子ちゃんはA号棟の女の子だ。確か、まだ12か、そこらだったはずだ」
『錦』が説明するのを聞きながら、老人は虚空を見つめる目を細めた。皺だらけの顔にさらに皺を寄せて、傷の痛みに耐えるように目を瞑った。
「あんな子でも、私らがやっていることが分かるんだねぇ。いや、あんな子だからこそ、分かるのかも知れないねぇ」
一同は息を飲んで次の言葉を待った。
「……今朝サヨちゃんがね、これを私の机に置いていったんですよ。何も言わず、愛想なく、ポンとね。あの子には言葉が無いからねぇ。それでもね、私にはわかりましたよ。あの子の無念も、あの子の涙も、きちんと見えましたよ」
清流のような老人の声に、微かな怒気が紛れ始める。穏やかな川の流れは徐々に乱れ狂う濁流の様相を呈してくる。
「『宮下』という職員は、皆さんご存知だね? あの子、ちょいとその宮下の野郎にヤラれちまってるらしいんですよ……。イタズラでしたじゃあ、済まされないくらいにねぇ」
ダンッ! と机を叩いたのは唯一の女性『鵺』だ。彼女は別段、小夜子と仲がいいという訳ではないのだが、とにかくその手の卑劣な悪漢が許せないのだ。ねこ耳のついたフードを取っ払い、語気を荒げる。
「あの野郎……くそっ! 道理で、あたしを見る目もなんか気色悪ぃと思ってたんだ」
「落ち着きなよ」
そうたしなめたのは、眼鏡をかけた若い男だ。暗闇のメンバー最後の一人、名前は『般若』。髪をミディアムに切り揃え、整った顔つきはまさに眉目秀麗。病棟の中でも、いや、世間一般にだってこれほど端正な顔つきの美男子はそうそういないだろう。変わったところといえば、彼がくまのぬいぐるみを手放すことが出来ないということくらいか。我が子のように抱きすくめたそれの、右目のボタンをくりくりといじくっていないとどうにも落ち着かない。彼にとってそれは唯一の母親の記憶なのだ。こうして右目のボタンをまさぐっていると、母親の胸に抱きすくめられた亡き日の感覚を思い出すことができる。ただ本人には何故、くまのぬいぐるみを手放すことができないのかはわかっていない。単純に、自分はきっとクマが大好きなのだろうと思い込んでいる。
そして彼の欠点のもう一つは、いつも一言余計なところだ。
「第一、君じゃ欲情しないだろペチャパイ」
「んだとてめぇ、このマザコンが」
誰に分からずとも、女性である『鵺』は彼の症状とその原因を敏感に察知していた。
「マザコン? はっ、この僕が?」
「他に誰がいんだよ、この野郎」
若い二人が腰を浮かせてにらみ合う。
「いい加減にしないか。『元締め』の前だぞ」
『錦』は怒るというよりも、やれやれと呆れた声で二人をたしなめた。
この二人、日中は磁石みたいにぴったりと寄り添っているくせに、夜になるとこれだ。
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