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「ふん、何もいないじゃない」
若い看護師の佐倉は暗い廊下を歩きながら独り言ちた。意味もなく、手に持った懐中電灯を右に左にかざしてみる。が、廊下の両脇には患者さんたちが眠る鉄の扉が葬列のように大人しく並んでいるのみだ。
こんな夜は『出る』。そう言った婦長の青ざめた顔が忘れられなくて、ついつい3時の少し前に巡回を始めてしまった。怖いもの見たさと言えばそうかもしれないが、このちょっとした違反行為はむしろ彼女なりの正義感といえた。
潔癖なまでに磨き上げられた白い廊下を抜けると、患者さんたちの憩いの場である広いリビングに出る。深夜の巡回は最後にここを見回りして、おしまいだ。
佐倉はあまりにも何もない普段通りの巡回に、拍子抜けを通り越してつまらなささえ感じていた。結局のところ、婦長を怖がらせるものなどどこにもありはしなかった。明日、このことを話してやろう。勇気を出してあなたの言いつけを破ったけれど、何もありませんでしたよと言ったら、彼女も少しは安心するだろう。
「あら?」
さっさと宿直室に帰って、『異常なし』に丸を付けて眠ってしまおう。そう思ったとき、懐中電灯が何かを照らし出した。
「……ん?」
大きなテーブルの上に、見慣れない突起物がある。精神病棟においては、自傷や他傷などの傷害行為につながる恐れがあるため、尖った物の取り扱いには特に注意が必要だ。それが、こんなところに無造作に置いてあるなんて。佐倉は神経が微かに粟立つのを感じた。嫌な感じがする。
近寄ってよく見ると、それは溶けて朽ちかけたろうそくだった。テーブルから浮かび出たようなそれは、鍾乳石のように白く爛れていた。
「何で?」まず思ったのがそれだった。どうして、こんなところに……。
そして、次に思ったのは「誰が?」――
まさか、と息を飲み振り返る。肩の長さで切りそろえた髪が勢いよく頬を叩いた。懐中電灯が薄暗い廊下を照らし出す。シンと静まり返った廊下には、頑固なまでに施錠された鉄扉が控えるのみだ。内側からは決して開くことがない、夜間の施錠だ。
誰も出られるはずがない……。どこまでも正常。しかしその当たり前に施錠された状態がむしろ、この状況の異常さの証明に他ならなかった。
口の中が乾き、額に嫌な汗が浮かぶのを感じていた。再び懐中電灯に照らし出されたろうそくは、それ自体が幽霊のようにおどろおどろしく見えた。
「!?」
心拍が乱れ、緊張し、研ぎ澄まされ過ぎている聴覚は妙な音を拾った。
テーブルの下、何かがすうぅと天板の裏をなぞるような音だ。
誰か、いる。
乾いた唾を飲みこむ。自分の足元に何かの気配を感じる。テーブルの下で、それは確かに私を見つめている。そんな気がしてならなかった。
うろたえて一歩後ずさる。冷たい空気が足に触れた。そのまま固まってしまう。大きく見開かれた目だけがせわしなく暗闇をかき回した。彼女の目は看護師としての使命と、人としての根源的な恐怖の狭間で揺れていた。
彼女の天秤はわずかに看護師の使命の方に傾いた。
テーブルに手をかける。嫌な汗はついに頬を伝ってきた。ゆっくりと腰を曲げていく。自分の身体がブリキのおもちゃのように軋んでいるのが分かった。
テーブルの下を覗き込む。まさにその時だった。
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