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ピピピ、ピピピ、ピピピ――――
佐倉は猫のように飛び上がった。尻もちをつかなかったのが不幸中の幸いだ。電子音は自分の左腕で鳴り続けている。一瞬、なにが起こったのか分からなかった。
見ると、それはいつも夜勤の時に着けている腕時計だった。この時計のタイマーは3時ぴったりに設定してある。飛び出しそうな心臓に手を当ててから、タイマーを切った。再び胸に手を当てると、心臓が狂ったように乱れ打っていた。
目を見開き、肩で息をする。頭の中が炭酸水のようにクリアになって、後には純粋な恐怖だけが残った。
佐倉は廊下に向かって走り出した。決して振り返らず、テーブルから逃げ出した。
そして、その夜のことは誰にも話さなかった。
§
さて、『宮下』という男性職員がその後どうなったか。
何も。どうもなってはいない。
いつもと変わらず元気に働いている。だから、もしかすると全ては患者たちの妄想だったのかもしれない。
ただし確かに変わったこともある。
彼は仕事中、頻繁に背後を振り返るようになった。背中に奇妙な視線を感じるようになったのだ。何か、誰かが自分を狙っていて、気を抜くと後頭部をカチ割られるのではないか。そんな妄想を抱くようになっていた。振り返ってみると、そこにはいつものようにべたべたと寄り添うねこ耳の少女とぬいぐるみを抱いた眼鏡の青年がいたり、聖書がおしゃぶり代わりのおじさんが立っていたりするだけで別段変わったことはないのだが、その気持ち悪さは日ごとに増していった。
そしてもう一つ変わったことといえば、A号棟の小夜子ちゃんのことだ。彼女はなぜか、昼食のおやつにリンゴジュースが出る度に、同じ棟の老人の元へ届けるようになった。佐倉などが「ジュースいらないの?」と声をかけても、彼女は何も言わなかった。ただ、老人にあげてしまうのなら初めから配膳はよそうとジュースを取り上げると、彼女はひどく不機嫌になって食事もとらなかった。そしてその無言の抗議のおかげで、彼女は老人にジュースを届け続けることが出来た。別段害があるわけではないので、職員たちもそれは彼女にとっては何かの儀式なのだろうと納得して止めはしなかった。
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