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「あら、どうしてかしら」
その若い看護師は頬に右手を当てて呟いた。もう片方の手には赤々としたりんごがひとつ載っている。
入院患者たちの昼食の時間。いつものようにトレーに1つずつ食事を用意していたのだが、どうも様子がおかしいのだ。
「どうしたの、佐倉さん」
「ああ、尾山さん。これ、おかしいですよね?」
佐倉、と呼ばれた若い丸顔の看護師は『番重』というプラスチック製の箱を婦長に見せた。学校などで給食のパンなどが入っているアレである。業者によって運ばれてきたこの番重には、りんご、ヨーグルト、みかんの缶詰など様々なデザートがお行儀よく並べられていた。
「何がおかしいの?」
尾山は首をひねる。別段、食材が腐っているわけでも見慣れないものが紛れ込んでいるわけでもない。
「何って、数ですよ」
「数?」
佐倉は指折り数えた。「りんごはA号棟の皆さんに、八王子さん、井口さんに山野さん。ヨーグルトは美濃部さん、二瓶さん。缶詰は野々山さんだけ、なのにほら、こんなにたくさん届きましたよ」
尾山は、増水した用水路を覗き込む少女のように恐る恐る番重を見た。
「あら、本当だわ」
佐倉はあごに手を当てて考え込む。
「どうしましょう。業者にお戻しするべき――」
「いえ、構わないでしょう」
「…………」
この尾山という人は、全く要領を得ない精神病棟の患者さんの話だって、いつもニコニコと話し終わるまで時には何時間でも黙って聞いているような人だ。自分で言っておいてなんだが、業者の手違いで余分に運ばれてきたデザートなんて、それほど重要なことではないのに……。
佐倉はいぶかし気な目を尾山に向けた。
「ですが……」
「いえ、それはその数で合っているのですよ、佐倉さん。気づいてくれてありがとうね。余りはコンテナに戻しておいていただければ結構だから。後は私が責任を持ちますからね」
「はあ……」
責任を持つと言ったって、一体何をどう責任を持つというのだろう。まさか余り全部、婦長の胃袋に収めるという訳ではないだろうに。
尾山は「戻しておいて」と言った舌の根が乾かぬうちに、自分自身でせっせと数が合わないデザートをコンテナに戻し始めた。佐倉は婦長の慌てっぷりに呆然と立ち尽くすのみだ。
「ところで、佐倉さん。今日は夜勤でしたか?」
「え? ああ、はい。そうですけど」
婦長は胸の前に手を組んで何やらおろおろしている。「あの、あの」と十分に言い淀んでから、彼女は話し出した。
「でしたら、3時の巡回は、巡回のベルが鳴ってからにしてくださいね」
「え?」
「ほら、本当は良くないんですよ。たまにいるでしょう? 3時の巡回が面倒で、2時とか2時半にさっさと廻ってしまう人。誰もいるわけがないのですから構わないと思うのでしょうがね、ダメですよ。良くないですよ」
「私、そんなことしてませんよ」
今度は、佐倉が話を遮る番だった。誰もいない夜中の赤信号だってきちんと守る私だ。そんなことをするわけがないじゃないかと、ほっぺたをぱんぱんに膨らませたい気持ちだった。
「ええ、もちろん分かってますよ。佐倉さんはね、ちゃんとしてるものね。でもね……」
尾山婦長はデザートの余りが戻されたコンテナを指差して言った。
「絶対、ベルがなる前に巡回しちゃダメですよ。……こんな日は、『出る』から」
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