自衛隊の不可解な行動

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自衛隊の不可解な行動

 盆休みで群馬県の実家に帰省していたM氏は、八月十二日の午後七時ころ、ニュース速報で123便が墜落したことを知る。  報道では、墜落現場は長野県の北相木村(きたあいきむら)付近と報じていたため、M氏はその付近に住む数名の友人に電話をかけ、状況を確認した。  しかし、友人たちはその付近には墜落していないという。  M氏はその後も、他の地域に住む友人たちに確認を行い、最終的に、南相木村の山間部付近ではないかと判断する。  このときM氏は二十代前半と若く、また友達が二人、実家に遊びにきていたため、三人は興味本位で墜落現場を見に行こうと、オフロードバイクで捜索に繰り出した。  時間は夜の九時過ぎで、月の光も届かない真っ暗な林道を、バイクのライトを頼りに走っていたM氏たちは、前方上空で二機の戦闘機が旋回している音を聴きつける。  墜落現場は、旋回する戦闘機の中心付近だろうとあたりをつけ、M氏たちは急いだ。  このときM氏たちの後ろを警察の白バイがついてきていたので、「警察も場所を特定しているんだと思った」と語っている。  バイクで可能な限り林道を進んだ三人は、バイクを降りて、徒歩で山に入っていった。  途中、山の頂きに登るたびに、ヘリの音がする方向を探して墜落地点を確認しながら、足を進めた。  子供の頃から遊んでいた、地形を把握している山ではあったが、夜間に急峻な山道を徒歩で進むことには慎重を要し、墜落現場には午前四時頃に到着した。  このとき既に現場には、百名ほどの自衛隊員が来ており、被害者のうめき声が谷にこだまして響き渡っているのを、はっきりと聴いた。 しかもその声の主は、四十人から五十人はいるだろうと思った。  M氏たちの間近にも、苦しそうに声をあげる人が数人いたので、M氏たちは自衛隊員に、呻きごえがする場所を教え、手当を頼んでまわった。  しかし隊員たちは、「手当は後から来る部隊が行うから」とM氏らに告げ、自分たちは手にした四〜五十センチの丸いバッグに、地面から拾ったものを黙々と入れ続けるだけだった。  その後三人が斜面を登り、尾根の反対側に出ると、向かいの谷でホバリングしているヘリを目撃する。  しかしそのヘリは、人命救助をすることなく、丸いバッグを十数個まとめ、ネットに入れて吊り上げていた。 全部で七十個くらいのバッグを回収していたと、M氏は語っている。  その後もしばらく三人は現場付近にいたが、先ほどの隊員たちが撤収し始め、交代するように別の部隊が入ってきたことを確認し、「これで被害者の方たちは助かる」と安心して現場を離れた。  ところが不可解なことに、地元の消防団が最初の生存者を救出したのは、その日の午前十一時四十分であり、M氏らが現場を後にしてから、およそ五時間後であった。  繰り返すが、M氏らが墜落現場に着いたのが午前四時頃で、数十名の呻き声を耳にしている。またその時点で現場には、百名ほどの自衛隊員が入って作業をしていた。  ところが、最初の生存者は、自衛隊ではなく地元の消防団が、午前十一時四十分に救出している。しかも最終的な生存者は僅かに四名。  ここで、生存者の川上慶子さんが祖母に伝えた証言を紹介する。 「墜落した後、ふと気が付いたら、周囲は真っ暗だった。あちこちでうめき声が聞こえ、私の両親もまだ生きていたような気がする。しばらくすると、前方から懐中電灯の光が近づいてきたので、助かったと思った。その後、また意識がなくなり、次に目がさめると明るくなっていたが、救助の人は誰もいなくて、周りの人たちはみんな死んでいた」  川上さんが懐中電灯の光を見た時刻は不明だが、墜落後に墜落現場に入った『誰か』が、複数のうめき声を聞いていたことは間違いない。  この『誰か』は、M氏や川上さんの証言からすると自衛隊だと考えるのが自然だが、墜落後数時間のうちに自衛隊が被害者を救助した事実はない。  自衛隊は一体なにをしていたのか? この点については、墜落当日のNHKニュースが、不可解なテロップを流している。
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