虚月寫眞館

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二年前、神社の向かいの通りにあった写真屋の店主が店を畳んで国に帰った。 二週間前、新しい写真屋が入った。現像代が、以前の店よりも安い他には、別段違いは無い。 ■ 虚月寫眞館 ■ 「現像お願いします」 「三日かかるけど、お急ぎ?」 「いえ、特に急いでません」 カウンターの灰皿に乗せられた煙草から立ち上る白煙。 二つのフィルムを差し出して、価格表を目で追って、料金が提示される前に財布から金額分を抜き取った。 「お客さん近頃よく来てくれる方だよね」 「…ええ、この前の店にもよく」 「写真がご趣味で?」 「いえ、…同居人を観察しているもので」 「観察?はは、面白いことを言うね」 店主は中性的な顔立ちをしているが、恐らく俺よりもずっと年上だろう。 笑うと目尻に深い皺がいくつも刻まれる。 印象がどうであれ、この人が男でも女でもどちらでも構わないし、別段親しくなろうとも考えていない。 ただ、出したフィルムを間違いなく現像してくれさえすれば文句は無いのだ。 「しかし随分古いカメラをお持ちなんじゃないの?」 「…そうですかね」 「今はもう八ミリが沢山出てるだろ? しかも撮るのが難しい二眼を愛用してるなんて、若いのにクラシックだなあっていつも思ってたよ」 「八ミリですか…、僕は映像にはあまり魅力を感じないので…」 静止画に拘っているわけではないが、写真を撮る方が気軽なので今更鞍替えをしたいとは思わない。 二眼のカメラは庭の物置で見付けたもので、気難しい構造が面白かったから使っているだけ。 精算を終えた頃、それじゃあ仕上がった頃にまた来ますと店主に告げて店を出た。 前回受け取った写真はどこにしまっただろうかとふと疑問になり、街灯の役割も碌に果たさず瞬きばかりを繰り返している不安定な灯りの下で立ち止まった。 写真入れなんて便利なものは持っていないから、押し入れに入れたきりだろうか。 (何にしても、何を撮ったのかもはっきり覚えてないな…) 同居人の観察の為に必要としているカメラのフィルム。あといくつ残っていたか。 役に立たない人間の役に立たない記録。 いなくなるわけでもなく、呆れるほどしがみついているわけでもなく、ただ生きているだけ。 本当に、役に立たない人。 * 「おかえり」 この人は元々この町に住んでいる人だっただろうか。 しかしこの頽廃的な笑顔は、俺よりも馴染んでいる証拠だ。 「新しい写真屋、気に入ってるのか?」 「別に。あそこしか現像できるところがないから」 「何て名前だったっけ」 「きょげつしゃしんかん」 カシャンカシャンと、空のカメラのシャッターを切る音が会話の中で相槌を打ち、反対方向を向いて寝転がっている彼が飽きることなくその行為を続けている。 「ねえ、」 「ん…?」 呼び掛けに対し、隈の酷い顔が振り向く。 近頃眠っていないのだ。 何故眠らないのか知らないが、彼が何故死にたがっているのかも分からないので、そんな浅い行為の理由など有って無いようなものなのかもしれないと納得した。 それに騒ぐこともしないので、眠らないのは言ってみれば彼の勝手なのである。 「この間持って帰った現像分、知らない?」 「…ああ、あれ」 カシャン、と相槌と同時に音が響き、彼は目を閉じて溜息を一つ零した。 「捨てたよ」 溜息を追うように吐き出された言葉。 ほんの少しだけ億劫そうな色をしていた。 「捨てたって、全部?」 「ああ、だって…何を撮ったか覚えてないだろ?」 起き上がって傍に寄った彼は両腕を肩に回したかと思うと、その顔を首元に埋めてしまった。 「…何で最近出かけてばかりなんだ?」 「…今日、同居人の観察をしてるって言ったら笑われたよ」 「……、観察なんてしてないくせにか」 「…出任せ言ってるのはお互い様だろ」 一日の終わりを告げる六時の時報が、曲名が分からないクラシックを連れて町中に響いている。 どのくらい眠っていないのだろう。 それなのに彼は眠気など本来存在しないかのような目付きをして、半ば睨むような視線を突き刺している。 何か気に入らないことでも、俺は云ってしまっただろうか。 「…陽が短くなるから…探せなくなる…」 「…俺が貴方に必要?」 出かけてばかりだと大袈裟に言うけれど、全部貴方の為だって、どうしていつも察してくれないのだろう。 顔を埋めたきりの彼は、伏せた目で虚空を見つめながらぽつりと呟いた。 「――…時々、ときどき名前を口にしたくなるから…いないと意味がない」 「………」 わがままな人。 しかしそれは貴方独特の未練なのか。 生き残っていくことを、貴方は望んでいなかったじゃないか。それなのに、どうして時々、生きてみたくなるの。 「…なあ、呼んでもいい…――?」 『なあ、あんたの名前、俺と一緒に生かしていい?』 僕の名前の必要性も、貴方は最初から縛っていて、戯言のような言葉の裏に深い意味を忍ばせていた。 初めてだったあの日、滅多に口にしない冗談が本当はそうでなかったように。 「…呼んでもいいけど、無駄遣いしないでよ」 顔を上げている彼の頬を両手で包みこみ、吐息で返事をした唇を塞いだ。 そうして細やかな口付けが途切れる頃、その体を畳に寝かし反対に彼の首元に顔を埋めた。 か細く、頼りない声音が知る人も殆どいない名を紡ぐ。 心の底から安堵している彼の呼び声が静寂に融解していく。 名前を紡いで安堵しているのはどちらなのだろう。 貴方の為にも、僕の為にも、二人の命は灯火を守っているわけではないのに、どうしてこんなにも穏やかな静寂が包みこむのだろう。 時報も聞こえなくなった界隈では、二曲目のクラシックが旋律を散歩させている。 聞き覚えのある曲だった。 確か、月の光、そんな名前だったと思う。 心地好い世界なんてこの世の中のどこかにあるのかな。 呼吸をもう一度させてみたいのか知らないけれど、時折見かけない人間が歩いている。 こんな退屈だらけの環境など入って気に入る人間なんて近頃見たことがないから、きっと惰性に身を任せられる人間でなければ町も受け入れないだろう。 染まることが全てではないけれど、少なくともここにいる連中は利己的に生きる輩ばかりだからだ。 「ん…っ、…ん…」 口付けが促すのは理性の眠り。 けれど同時に人本来の理性をも呼び起こす。 彼の手が服の隙間から入り込み、肌を撫で、冷たい感触が縦横無尽に這う。 触れた血の流れを感じ取り、久しぶりに笑った彼が俺を求めている。 こんな行為は初めてだったろうか。 いやそんなことは無い筈だ。 僕らは疲れる生き物だから、この交わりを避けた覚えなど無い筈だ。 「ぁ…、っあ…」 「…力…抜いてくれる…?」 求めあう意味なんて、いつから生まれたのだろう。 そんなものよく探していられるな。探している間に熱が冷めて、その頃にはどうしてこの相手でなければいけなかったのかって、また理由が必要になる。 くだらない。くだらない、時間潰し。 繋がって、吐く息を交わし合って、遠退く世界の切れ端で、また彼が呟いた。 ―――この前撮った写真、何だったか覚えてるか? 俺ははっきり覚えてる。だからこそ、捨ててやった。 お前、誰の為にあの写真を撮った? あんな迷い、お前にはもう無いと思ってたのに――― 思い出せないなら、いっそのこと捨てられたままでいいと思った。 三日後、写真を取りに行く。 その日には彼も一緒に連れて行こう。 名前を紡ぐことは延命処置か何かなのか。 彼の呼び声は眠りの先までも響くから、夢の行方が分からなかった。 胸の中にある小さな体は、また眠ることなく沈んだ夜の内側で目覚めを待っているのかもしれない。 数時間後目が覚めると、彼は台所にいてお茶を湯呑みに注いでいた。 目覚めた俺にその湯呑みを差し出すと、彼は笑顔を見せた。 意外なほど澄んだ瞳の奥に、微かに口角を持ち上げている自分を見た。 忘れない内に書いておいた。 そう唐突に言った彼が指差したのは、時計の隣にかけたカレンダーだった。 三日後の日付欄に、『虚月寫眞館』と、見様見真似で書いただろう文字が並んでいた。 一緒に取りに行く?そう問いかけると、彼はどこか楽しそうに、頷いて見せた。 End.
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