3、きみに届けたい歌と雨傘

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 水無月新は、かつて路上で演奏していたことがある。まだ彼が世に知られていない頃のことだ。  セツナはそれを本人の口から聞いていたし、ネットにも同様の情報があった。そして、路上で演奏していた頃から彼を知る古参のファンは、「ミナはあの頃の曲が一番良い」と口々にSNSで発信していた。それ自体は特段珍しい現象でもない。無名の頃から応援していたファンの思い入れは強くて当然だ。  だが、水無月新の路上ライブ時代の曲は、いざ探してみるとなかなか見つからないのである。  CDに収録されている曲やダウンロード販売されている曲は、いずれもメジャーデビューしてからのものだ。動画サイトにも上がっていない。ごくたまにライブで歌うことはあるらしく、DVDに何曲か収録されているのみ。それでも、全てではないらしい。  一体なぜなのか、ファンの間でも意見が分かれていた。思い入れがあるからここぞという時にしか歌わないのだ、というファンもいれば、当時はまだ荒削りだったから今歌うのは恥ずかしいのかも、という意見もある。いずれにせよ、シンガーソングライター・水無月新の最初期の曲を耳にしたことのある人間は限られているのだ。  サラリーマンが行き交う路上を懐かしげに見つめる水無月に、セツナはさらに尋ねた。 「水無月さん」 「うん、何?」 「あなたは、『彼女』が誰か分かっているんでしょう?」  事務所で話を聞いた時から、ほぼ確信を持っていた。  姿なき者から声をかけられても怖がらなかったのは、無神経だからではない。彼はその「声」に聞き覚えがあったのだ。おそらく、分かっていた。声の主が誰なのか。  それが悪い心当たりならば、すぐに除霊してほしいと言うはずだ。けれど彼はそうは言わなかった。焦っていたのはあくまでマネージャーの鳥越で、水無月本人は彼やセツナを茶化すばかりだった。  水無月は表情を変えることなく路上を見つめ、ぽつりと呟いた。 「雨が降っても、傘を差して聞いてくれてたんだ。いつも」 「……それは、あなたのファンの第一号?」 「うん、そういうことになるかな。今思えば笑っちゃうような青臭い曲でも、最後まで聞いて拍手してくれたよ」  路上で歌う若者と、見つめる女性。ステージと客席のように隔てられてはいなかった当時、親しく言葉を交わすこともあったのだろう。 「俺を『ミナ』って呼んでくれたのも、あの子が最初だった。だからすぐに分かったんだ。これでも耳はいいんだよ、俺」 「……その頃の歌をあまり歌わないのは、彼女のため?」 「いや、単に気恥ずかしいっていうかさ。昔の黒歴史って感じじゃん?」 「でも、その曲を『彼女』は喜んでくれたんでしょう」  セツナは視線をずらす。足早に通り過ぎて行く人々の間に、ぼんやりと佇む若い女性の姿があった。  長い髪に細い体、淡い水色のワンピース。雨は降っていないのに頭上には透明のビニール傘を差して、水無月をじっと見つめている。水無月にはその姿は見えていないようだ。声だけが聞こえたのは、彼が非凡なミュージシャンで、申告通り「耳が良い」からなのだろう。  彼女がいつ、どこで、何が原因で亡くなったのかは分からない。  でも、彼女の未練は確実に「水無月新」にある。ファンに軽い接触を試みたのも、危害を加えようとしたわけではなく、おそらく彼に何かを気づいてほしかったからに違いない。 「……セッちゃん。俺、どうすれば良かったんだろう?」 「水無月さん」 「ミナ、って声は聞こえるけどさ、他は何も聞こえないんだ。あの子がどうしてほしいのか、俺には全然、分からなくて……他のファンの子たちが怖がってても、何もできなかった」  水無月の表情には、苦悩が浮かんでいた。  軽薄さを装ってはいるが、彼の本質はきっととても繊細なのだ。その優しさは、彼の作る曲にも表れていた。何か手がかりがないかとこの三日間「水無月新」のCDを聞き続けたセツナには、それがよく分かる。  女性は確かに水無月を見つめていて、水無月も彼女の願いに応えたいと思っているのに。その視線は交わることがない。同じ場所に立っていても、生者と死者は厳格に隔てられている。  セツナは女性を見つめた。  幽霊の声は聞こえることもあるが、聞こえないこともある。彼女の場合は、後者だ。水無月に訴えかける言葉しか、彼女は持っていない。セツナにはそれを聞くことができない。  何となく想像はできる。そうでなければこの場所に目星をつけることはしなかった。だが、問題は「どれ」か、ということだ。彼女の未練を解き放つもの、それは――…… 「『月と雨傘』だってさ」  唐突に、耳元でエマの声がした。  セツナは驚いて振り向く。今まで姿を消していたエマが、すぐ側に来て意味深な笑みを浮かべていた。
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