3、きみに届けたい歌と雨傘

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「あー、その顔。さてはオレのこと忘れてたでしょ、セッちゃん」 「エマ、あんた、あの子と話せるの?」 「そりゃ、同じ幽霊だしね。さっきこっそり聞いてみたんだよ」  ――君が歌ってほしいのは、なんて曲?  エマは、セツナの意図を分かっていたのだ。  水無月新が、めったに歌うことのない曲たち。路上で彼女に聞かせていた頃の歌。彼女はそれを聞きたいのだろう、とセツナは考えた。だから、ここに彼を連れ出したのだ。  しかし、実際に彼が路上で歌っていた曲はいくつもある。そのうちどれが彼女の「未練」なのかまでは、セツナには分からなかった。水無月本人ならば分かるかと思ったが、彼にも分からないという。エマは、それを彼女から聞き出したのだ。  突然言葉を発したセツナを訝しんで、水無月が不思議そうに首を傾げた。 「……セッちゃん、誰と話してんの?」 「あ、いえ、ごめんなさい。それより水無月さん、『月と雨傘』という曲、分かりますよね」  水無月は目を見開いた。 「セッちゃん、そこまで調べたの? すごいなぁ、あれはライブでも一回も歌ったことないのに」 「調べたというか……とにかく、その曲を」  歌ってほしい、と言いかけてセツナは言葉に詰まった。  ここは人通りの多い往来だ。水無月新が突然歌い始めたりしたら、確実に大騒ぎになる。勝手にゲリラライブのような真似をするわけにはいかない。いつものように札を貼って音が漏れないようにするにも、人が多すぎて無理だ。  だからと言って、場所を移動するわけにもいかない。おそらく彼女はこの場所で、曲を聞きたいのだ。そうでなければ成仏できない可能性が高い。  どうしよう。どうすればいい。そこまで考えが及んでいなかった。  言いかけて黙ってしまったセツナを見て、水無月はポケットからスマホを取り出した。  慣れた手つきでアプリを起動させると、彼がスタジオでギターを弾いて歌っている映像が流れ出す。 「もしかして、これが……?」 「うん、『月と雨傘』だよ。実は今度、全国ツアーで歌おうかと思ってて。練習してたんだよね」  ――夜の闇も、やまない雨も  ――君がいたから、乗り越えられたよ  ――ありがとう、ずっと、忘れないから……  率直で優しい歌詞に、分かりやすい旋律。確かに、今の彼の洗練された音楽に比べれば拙いかもしれない。  だが、彼女はこの曲を歌う「水無月新」に惹かれたのだ。雨が降り続く夜の駅で、誰にも見向きもされず、けれど一生懸命に声を上げる青年に。 「それで、ビニール傘を持ってたのね……」 「え?」 「いいえ、何でもありません。とても良い曲だと思います」  セツナは懐から、愛用の横笛を取り出した。  幽霊にしか聞こえない音を奏でるそれを、そっと口に当てる。今聞いたばかりのメロディーを、ゆっくりと吹き始めた。  普通の人間には聞こえないはずだが、彼ならば、もしかして。  案の定、水無月は目を丸くしてセツナを見つめた。音が聞こえているのだろう。  そして、小さな声で呟くように歌い始める。 「……夜の闇も、やまない雨も」  ――君がいたから、乗り越えられたよ。  足早に通り過ぎて行く人々には、聞こえない程度のささやき声で彼は歌う。「彼女」の表情が、みるみるうちに明るくなり、目から一筋の涙がこぼれた。  ――ミナ。  ――ミナ、ありがとう。ありがとう。  今度はセツナにもはっきりと聞こえた。  水無月の視線が、彼女に留まる。見えていないはずなのに、声だけで見当を付けたのだろう。そのまま、彼は歌い続けた。きっと、あの頃と同じように――たった一人の観客のために。  彼女はセツナとエマにゆっくりと頭を下げて、笑顔で空を見上げた。  手にしたビニール傘ごと、光に包まれていく。 「ありがとう。ずっと……忘れない、から」  最後の歌詞が呟かれた時、彼女の姿はどこにもなかった。
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