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「フィンランド的イメージ」とユズは笑い一呼吸置く。「楽しみだね」
「ねえユズ、フィンランドって暖かいよね?」私は訊ねる。
「そうだね。ドイツよりも北にあるけど、でも寒さって個人的なものだからね」
寒さは個人的なもの。
「わたしね、マリエンプラッツの古着屋で素敵なコートを見つけたよ。結構な値段だったから、ずっと渋ってたんだけど、メイコの一押しで買っちゃった。フィンランドがどんなに寒くったって、こいつと一緒なら大丈夫だ。トロールの毛皮じゃもちろんないけど、すごく暖かいんだよ」
わたしはふと思い出したことを勇んで口にしている。
「心強い相棒だね、よかったよかった。というか、メイコちゃん、って、留学生の子?」
あれ、前に話したような覚えがあるけれど?
「そうだよ、こっちで一番仲いい子。初めて会うタイプで、ちょっと変わってるってみんなは言うんだけど、一緒にいるとわたしはすごく落ち着くんだ。ドイツの作家にも詳しいから、色々と話せて楽しいし、ときどき、授業のことで助けてもらってたりもする」
「ドイツでの生活は順調のようだ」とユズは丸い声で言う。
「うん」とわたしは笑顔を作ろうとする。「まあ、それなりに、ね。もう三ヶ月経つんだもん。人間関係も落ち着いてきた。学校の方も要領を掴んだ。だから、ずっと楽になった。初めの二週間は、すごおく苦労したけど」
そっか、とユズが相槌を打つ。私は、電車の乗り方や街の歩き方について学習したことをユズに伝える。些細な話。でもユズは親身になって聞いてくれる。
「日本との違いはたくさんあるけれどね、とりわけ困るのは、トイレが少ないってとこ。だからあんまり外で飲み物飲まないようにしてるんだ」
そう伝えると、ユズは驚いて笑う。
「で、色々と一周した頃合いなんだけどね、気づけば机の上がひどいありさまで」とわたしは、えへへ、と笑う。「課題図書とレジュメとレポート用紙が、ガラスと塵とコンクリートみたいに積もってる」
「マキちゃんは平常運転を続けている」とユズが口にする。
「そう、平常運転を続けてる」
二人して笑っている。わたしはユズの笑い顔を想像しながら。とても懐かしい光景が浮かぶ。嬉しくなってまたわたしは笑ってしまう。
「ユズ、助けてよ。もう手が回らなくなっちゃいそう」
少しばかりのタイムラグを挟み、うふふ、とユズ。続く言葉はない。それはまるで、わたしの子どもじみた発言に驚いて、馬鹿げていると嗤っているみたいにも思える。当然、ひどい勘違いなのだけれど。
『空しい?』という言葉がふとよぎる。わたしはそれを断固として否定する。
『ううん、そうでもないよ』
『いや、むしろ少しほっとしている。なぜだろう? ユズに会えなくて寂しいはずなのに』
「ま、フィンランドに行ったら、いつもみたいに助けてあげよう」という応答が返ってきている。
「ねえ、ユズ。氷点下三十度の世界ってどんななのかな?」
「さあ、どうでしょう。でも、ドイツだって結構冷えるんじゃない?」
「こっちはまた違う」とわたしは自分でも驚くほどの速さで返答をしている。
ふうん、とユズが鼻を鳴らす。「どう違うの?」とは訊かない。そういう優しさが胸にしみる。
「ねえ、聞いて」とユズが口火を切り、愚痴混じりのアオサキ君との近況報告が続いてゆく。ユズの恋人。彼は今、ボンにいる。わたしと同じで留学生だ。ユズと同じく法律を学んでいて、裁判官になろうと考えている(一方のユズは弁護士を目指している)。わたしとは大違い。まだ、将来のことなんて決められない。二人はすごい。惚けながら、カップのコーヒーをすする。苦すぎる。まだ味に慣れない。少しスモーキーで後味に強い苦みがある。口直しなしには耐えられない。そうして、私はチョコレートを、生存者の捜索が事実上不可能な瓦礫の山で眠るチョコレートを、慎重に、でもガサゴソと音をたてて探し始める。
『こっちに生存者がいるぞ!』と左手が報告する。
わたしたちは懸命に努力し、やっとのこと銀紙が姿を見せる。なにをやってるのやら。
「元気そうだよ、アオサキ君も。まあ、話しをする限り、だけど。遠くにいると実際のところはよくわからない」とユズが口にする。
遠くにいるからわかってしまうこともあるよ、ユズ。
「でも多分、少し寂しがってるような気がしてる。フェイスブックの投稿が増えてる。恥ずかしいから、正直、止めて欲しいんだけど、仕方ない。きっと暇を持て余してるんだ。旅行でもすればいいのに、あの人、出不精なの。せっかくドイツにいるのにね」
そう、せっかくドイツにいるなら、わたしもミュンヘンを出て、他の町へ旅行をしにいかなくちゃ。
「ほぼ毎日連絡くるよ。ちゃんと勉強してるのかなあ?」ユズは続けている。
「アオサキ君なら安心じゃない?」わたしは久々に相槌をやめて訊ねる。
「そうだね」とため息に混じらせてユズは言葉を吐く。「まあ、頑張ってもらわなくちゃ、困る」
ユズはあのいじらしい笑顔をパソコンの画面に向けているのだろう。
「ボンってね、法学部の学生にとって、とっても良い環境なんだ。旧西ドイツの首都だったから教授陣も資料も充実してて、だけど静かな田舎町なの。最高だよね。学業にはうってつけだよ。私も行きたかったんだけど」とユズは言う。ユズは両親の反対で、留学を断念したのだ。
わたしがチョコレートを唾で溶かしていると、ふふっ、とユズが嬉しそうに笑う。
「ね、アオサキ君、みんなからフェニックスってあだ名で呼ばれているんだって」
「どうして?」
「エジプト神話におけるアオザギが不死鳥を意味してるからだと思う」
「なんだかインテリな名前」
「本人はね、リンキンパークのことだと勘違いしてる。ベーシストがフェニックスって名乗ってるの。その写真送りつけてきて、似てるだろ、って騒いでた。ので、何も言わないでおいた次第です。恥ずかしいことに、大ファンなの。パンクって全然理解できない」
堪えきれなくなったかのようにユズは笑い声をあげる。
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