第一部 嘔吐/グラウンド・ゼロ

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 そう、その微笑みが昔から好きだった。小さくて上品、けれどイタズラっぽい毒が少し含まれている。そして全体として、とても愛らしい。まるで兎みたい。人間なら、エル・ファニングが一番近い。そういえば、ソフィア・コッポラの『サムウェア』を二人で一緒に見たことがあった。無垢さそのままのエル・ファニングとユズを見比べて、わたしはふと、奇妙な感情を抱いた。そうだ、あれは東京でのこと。ユズのアパートだ。その日、わたしは彼女の家に泊まり、夜が更けるまで話をしたけれど、内容が全く思い出せない。なぜなら、わたしは上の空だったから。その、映画の最中に出くわした感情は、初めて出会うものだった。わたしはそれに圧迫され、ひどく困惑した。嫉妬だ。邪悪さが自分の心の中にも潜んでいる。そしてその矛先がユズに、一番大事な友だちに向かっている。わたしは驚いた。悲しくなった。そして、それらすべても吹き飛ばすほど、ひたすらに途方に暮れた。抗いようがないのだ。わたしの内部には、わたしでない人間が隠れている。マトリョシカみたいに、赤ずきんの狼みたいに。思い出した。その頃から、わたしは鏡を避けるようになった。だからこの部屋に鏡がないのだ。生活するなかでさしたる不便がないから忘れていた。窓に映った像で事足りてしまう。陽が当たらないから、日中でも申し分なく。  ともかく、わたしはユズに嫉妬心を抱いた。だけどそれでも、やっぱりユズが大好きなままだった。彼女の魅力はわたしには欠片もないものだ。話をしていると、とても満ち足りた気分になる。そう、わたしは本当にユズを大事に思っている。とっても素敵な子だと、心底感じている。この気持ちは、友達として以上にまで膨れているかもしれない。でも構わない。わたしには少し男の子っぽい部分があるのだ。高校生の頃、悩むまではいかないけれど、不安を感じることがあった。『ひょっとして、わたしは男の子よりも女の子が好きなのかも』と。でも、深刻には捉えなかった。むしろ当然の成り行きだとみなした。可愛い女の子に可愛いと素直に思う。それだけ。ひどく自然なことだ。まあ、他のひとと違う自分に、幾らか優越感があったのかもしれない。恋愛に勤しむ同級生たちをかつてのわたしは空っぽだと馬鹿にしていた。男の子は猿よりもお馬鹿さん、そんな相手に媚を売りデートという名の浪費を繰り返しながら、周りで一番に処女を捨てる。下らない遊びだ、とわたしは見下した。下世話な話題に満足して自分を貶めるひとたちとは、関わりを持ちたくない。同じ空気を吸うのすら耐えられない。真剣にそう考えていた。私にとって重要だったのは、どれだけ素晴らしい感性を持つか、誰かの役に立てる能力を手にしているか、純粋な愛を育むことができるか、それだけだった。そういう意味でわたしはひどく極端で不自然な無垢さを抱え込み、子供時代をやり過ごしていた。『あの子達には、私の大切にするものを理解するなんて出来ない』、そう思って誰とも口を利こうとしなかった。『自分を理解できない存在と話しても悲しいだけ。音楽とか、小説とか、詩とか、いつまでも内側に積もり、胸を温めてくれるようなものになぜ目を向けないの? あんなに優しくて心地よい世界を知らないまま人生を送るなんて可哀想だ』。生理の不快さに我慢できなくなって真っ黒な言葉も浮かんだ。『外側ばかり綺麗にして、我が物顔して廊下を歩く愚かな人たち、汚い目を向けないで』。学校は地獄だ、そう決めつけて、自分が愛するものだけの世界に籠った。頭の中では、絶えず音楽を鳴らしていた。大抵それは、ブラームスのピアノ曲だった。『間奏曲』、『四つのバラード』、『二つのラプソディ』。演奏は決まって、当時繰り返し聞いていたグレン・グールドのものだった。音楽は私を守るゆりかごで、どこか別の安らかな世界へと運んでくれた。そんなわたしも高校二年生になり、転機を迎えた。ユズだ。ユズはいつも誰かに囲まれていた。クラスが違ったから、遠目で眺めるばかりだったけれど、自分とは別世界の人だと感じながらも、不思議な親近感を抱いた。『この子なら一緒に話ができるかもしれない』。どうしてだろうと時折考えるがよくわからない。ただそう感じたのだ、理由もなく。でも、当然、自分から進んで話しかける勇気なんてなかった。そんなある日のこと、合唱祭の譜面作りを任されて放課後に音楽室へ向かうと、そこにユズがいた。彼女もまた、クラスでの譜面担当だったのだ。期待と緊張が入り混じりながら、もちろん、部屋に入るときに小声で挨拶をしたっきり、わたしはぶすっと黙っていた。でも作業を始めて三十分もした頃、唐突に「マキちゃんって、二年の頃、合奏コンで二組の伴奏してた?」とユズが話しかけてくれた。わたしは無言で頷いた。ユズはさらに言葉を続ける。「すごく綺麗な演奏だったよ。本当に、聞いたことがないくらい綺麗だったな」とユズは思い耽るような顔つきをする。わたしは最小限の反応しかしなかった。でも、ユズは話し続けた。「ずっと気になってたんだ。どうしたら、あんなに、柔らかくて純粋な音を奏でられるんだろうか、って」。ユズが本気で褒めていると分かって、わたしは少し顔を赤くした。ばつが悪いと感じて、「ありがとう」と一言口にしたが、その言葉は久しぶりに口を開いたからだろう、とてもザラつき、はっきりとした音になっていなかった。だから私はもう一度その言葉を繰り返した。そして、「グールドが好きで、彼の演奏をお手本に練習してるんだ」と口にしかけたが、形にならなかった。するとユズが代わりに口を開く。「でもマキちゃん、あ、マキちゃんって呼んでいい?」。ユズが口にした『マキ』という名前は、誰か他の人を指していると思えた。とても柔らかな響きを持っていたから。わたしはゆっくりとおもむろに頷いた。とろけるような感覚があった。「よかった」とユズは笑う。わたしも合わせて微笑を浮かべようとした。「でも演奏以上に、ね、マキちゃんってすごく素敵。まっすぐで、優しくって、それに、とっても可愛いらしいな」。わたしは再び黙りこくった。暖炉の炭ほども熱している自分の顔に戸惑っていたのだ。「あれ? あれ、ごめん、私、変なこと言ってる」とユズは口を開いて、手で覆う。そして、わたしに近寄り、俯かせた顔を覗き込んでくる。「ごめんね、マキちゃん。ごめん。気を悪くさせるつもりはなかったの。わたし、ときどき、考えなしに変なこと言っちゃうんだ、ほんとにごめん」。わたしは顔を背けながらも首を振った。「ううん、違うの」と私は言う。その声はそれまでとは違って、はっきりとした生気があった。「ただ、嬉しかったの。そんなこと言われるの、初めてだから」。ユズは驚いたように目を大きくして、しばらく静止したあと、唐突に笑いはじめる。そして、あの、それからの私を救ってくれることになる、柔らかな表情を浮かべる。私は胸の内で強く頷き、意を決めて口を開いた。「あの、ね、ユズちゃん。よかったら、なんだけど、私と友達になってくれない、かな?」。言葉の区切りが不自然すぎると思いながら、わたしは目を開いた。そして、少しずつ前を向いた。「いい、かな?」ともう一度言い終えるくらいで、ユズと私の目があう。わたしは背けそうになっている。今すぐ譜面で顔を隠したかった。でも、前を見据えつづける。ユズは何かを待つかのように、じっと微笑を浮かべてわたしを向いていた。そこには、わたしを可愛いと言ったのが嘘に思えるくらいの、五月の草木のように無垢な瞳がたおやかに垂れた、新緑を揺らす風のように穏やかな笑顔が浮かんでいた。わたしは夜空で輝く月を思い描いた。ユズは「うれしい」と言った。私は「ありがとう」と早口に言い、譜面で顔を覆った。それからは、作業に逃げこみ、相槌と二、三の言葉しか言えないままに時が飛ぶように過ぎた。気づけば見慣れた帰り道、夕闇、一人歩いていて、伝えたい言葉が涙とともに溢れ出していた。でも、涙を堪えながら思いつくフレーズなんてあんまりない。だから月に願った。もう一度ユズとお喋りがしたいと。そしてそれからは毎日、ユズがわたしの机までやって来てくれるようになった。月の魔力を、今でもわたしは信じている。
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