第一部 嘔吐/グラウンド・ゼロ

6/9
前へ
/36ページ
次へ
 ユズの声が私をはっとさせる。 「ミュンヘンはボンと違う、よね? マキちゃんは毎日どんなふうな暮らしなの? あ、ところで、私自身に関して話すことって、あんまりないんだ。法律に振り回されるばかりの日々だから。嫌になっちゃうよ、ホントに。まあともかく、マキちゃんの方はどうなの?」  今ここで、わたしはなにをしているんだろうか? 「普段は、日本人の仲良いい子たちと一緒にいるよ。映画を見たり、音楽を聞いたり、料理を作ったり。時々、ドイツの子とも食事にいくんだ。みんな、寿司とかラーメンとか、大好きなの。あ、パーティーを開いたりもしてる。おにぎりパーティー」  なんだか、変哲のない留学生の日常って感じ。 「なんだかすごく留学生っぽくて笑っちゃう」とユズが加える。  ほんとにそう。 「そうなの、自分でも驚いちゃう。知らない間に、友だちが増えてて、もう手に負えないよ。少し怖いくらい」 「フェイスブックで顔と名前が一致しない人物が出現する頃合い」とユズが茶化す。 「そうそう」  私もうふふ、と加える。 「疲れちゃったな。やっぱり、楽しいけど忙しいのって、好きになれないや。今週末もドイツ人の家でクリスマスパーティをするらしくて、誘われてはいるんだけど、レポートも書かなくちゃいけないし・・・。どっちかすっぽかそうかなあ」とため息を交じらせる。 「キャパオーヴァー気味の時って、できるだけ規則正しく過ごすといいよ」とユズは言う、私を諭すよう。確かにその通りだよ。昼間の自分に欠けているものを埋めようと、夜の海を彷徨っているなんてとっても不自然だ。結局、残るのは虚しさだけなんだから。 「寂しくは、ない?」とユズは、母親が小さな子供に向けるような声で訊ねてくる。  私ははっきりと言う。「うん、寂しくないよ」  実際どうなのかはよくわからないけれど。 「友だちがいてくれるから。それに、ホームシックになる子もいるみたいだけど、わたしはそれほど日本のこと好きじゃないから」  そう言うと、わたしらしいとユズは呟く。 「そうだ、似たような話をメイコと二人でしたんだよ。メイコ、ドイツにきたら、もう日本に帰りたくなくなったちゃったって。あの子も日本での生活よりも、ドイツで暮らしてた方が楽に感じるのかな? わたしも日本が嫌いってわけじゃないけど、やっぱり、ドイツのことすごく好き。街は綺麗だし、みんな落ち着いてるし」 「それはよろしい」とユズが冗談めかして言う。 「うふふ、ちょっとユズに似てるかも、メイコって。私の心配ばっかりしてくれるとことか」  ユズは吹き出しそうになりながら、「なにそれ?」と少し大きな声で言う。 「でもわたしは日本での日々に安住しています」とユズがまた笑いを誘ってくる。 「でも、きっと、マキちゃんのこと見てると、心配になっちゃうんだよ、メイコちゃんもね」と笑いを抑えながら、ユズはさらに口にする。 「わたしって、そんなにぬけてる?」  こういうやり取りがひどく懐かしい。もう、半年以上ユズと直接に会えていないのだ。 「でも、マキちゃんの声、元気そうだよ。きっと、ミュンヘン、すごく楽しいんだろうなあ。アオサキ君に言っておくね。『ミュンヘンはドイツ一の賑やかな街、田舎町ボンとは大違いだ。法律なんか棚に戻して、君も旅をしに行きな』ってね」  わたしはゲラゲラ笑い続けている。いつまでも笑いは止まろうとしない。 「ああ、私も留学したい。ミュンヘンの街って、ほんとすごく綺麗。今、写真見てるんだよ」とユズ。 「え、ネットに落ちてるやつ?」とわたしは訊ねる。そうだ、とユズ。 「私もたくさん写真撮ったんだよ、送ろうか?」とわたしは訊ねる。「というか見て欲しい、えへへ。ラートハウス、あ、市庁舎のことね、その機械時計がたまたま動いてるタイミングでシャッター切れたの」と言い、ドラッグアンドドロップで送る。「あ、送れた」  しばらくして、ユズが「来た来た。うんいい写真ね、結構大きいんだね、この人形」と反応してくれる。わたしはさらに十数枚、写真を送る。 「これすごくイカしてる。マキちゃん、自転車似合うねえ」わたしが買ったマウンテンバイクを見てだろう。 「それに、川沿いも流行りのフォトジェニックだ」イザール川だとわたしは加える。 「こんなに広い原っぱの公園があるだね」英国庭園。 「あ、これが例のコート。ヤンソンの世界からはかけ離れてますけど」。「これが、メイコちゃんかな? お、このドイツ人、背が高くてハンサム」。「綺麗で広いクリスマスマーケット! ぷっ、ビールのジョッキ大きすぎ。というか、ジョッキ開け過ぎ」。「ほお、空が広い。飛行機雲たくさんだ。夜が優しいね、暖かそうな光が灯ってる」、夜が優しい?  ユズは私の暮らしを褒めちぎる。子供みたいにわたしは喜んでいる。 「あれ? そういえばユズ、もう司法試験終わったの?」と時計を見て訊ねる。日本は今、もう夜の十時をまわりかけている。 「ううん。というか、司法試験はまだ二年も先だよ」笑い。「この前受けたのは、法科大学院の試験。なんとかパスしたから、当面のところはゆっくりできるんだ。まあ、今は晴れて司法試験の受験生になったわけで、あいも変わらず朝から晩まで図書館にひたすら籠ってるんだけど。そうなの、昨日ふと気づいたんだけど、家から図書館のルート以外、この一週間どこへも移動してない」  わたしは高校三年生のユズを思い出している。参考書と睨めっこをしたまま昼ごはんの時間になっても席を立つこともなく机に張り付いていた。わたしは根を詰めすぎじゃないかと心配し、彼女のところに行った。すると、ユズは一瞬でスイッチを切り替え、わたしとお喋りをしてくれた。ユズはとてもタフ女の子なのだ、今も昔も。でも、あの頃のユズにも悩み事があった。進学先のこと、将来のこと。それに、恋愛のこと。
/36ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加