第一部 嘔吐/グラウンド・ゼロ

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 N。一番初め、ユズがNを紹介してくれた時(まだ二人は付き合っていなかった)、真面目で優しそうな人という印象だった。それにユズから聞いている話の通りに、頭の切れる落ち着いた人だとも感じた。ユズに相応しい、ユズをずっと大事にしてくれる人だろうと、なぜかわたしは初対面のうちから信頼した。多分、わたしと少し似ていたからだ。『自分は他とは違う』。そんな自意識を彼はわたしよりもずっと強く持っていた。それに、ユズをとても大事に思っているのがはっきり見て取れた。今にも爆発しそうなほどの愛情と、なにがあろうと守ってやりたいという真摯な想いを感じないわけにはいかなかった。肌を痛くするほど、それは溢れ出していたから。仲間意識に近い共感。それがあったのだろう、Nとわたしはすぐに仲良くなった。兄弟はいなかったけれど、いたらきっとこんな風だろうな、とも思った。Nといると、自分を曝け出すことができた。もろもろが起こり二年前、二人は別れた。でもわたしは、それからも彼と定期的に会い続けた。なにも変わらないように、気さくに話をした。私は何を話していたんだろう? ゲーテとか写真のこととか、大学のサークルのことだった気がする(わたしは大学の小さな合唱サークルに所属していた)。彼はもっぱら音楽について話をした。Nは中学生の頃からずっと作曲をしていた。だから、その自作曲や、創作そのものに関して、熱っぽく話をしてくれた。「日本語で詩を乗せる意味って何なんだろうね? 結局、ロックなんてのは西洋音楽でしかない。だから、僕ら日本人がどんなに努力したって超えられない壁がある。僕は壁を越えるんじゃなくて、抜けるべきだと思う。具体的にどうすればいいかはまだ手探りだ。でもともかく、日本語で音楽を作る意味が必ずどこかに転がっている。僕はそれを必ずや見つけ出す」、「『いかに欧米のビートに沿った音楽を作るべきか』、それが今の僕のテーマなんだ」、「ねえ、この曲のこの言葉、君にはどう響いた?」、彼の話し方はいささか分かりにくかった。日本の多くのミュージシャンと同じように、海外のロックバンドに憧れて音楽を始めたNは、技術や論理ではなく、感情や心に訴えかける要素を重視していた。彼の作る曲は、好きになるものもあれば、よく分からないと疑問符だけが浮かぶのもあった。でも、情感を大切にする姿勢に対して、わたしは好意を抱いていた。それに、新作ができるたびに私に聴かせ、感想を求めてくるのは、彼の大切な存在になったみたいで、慣れない嬉しさがあった。ユズの恋人ではなくとも、今ではNはとても大事な友だちの一人だ。だから、最近のNがどうしているのか、実のところ少し気がかりだ。最後に日本で会ったとき、彼の内部で、なにか暗い存在がよぎっているような感覚があった。ユズと別れてから、Nは大きな変貌を遂げた。まず、外見がとても変わった。かつては育ちの良い好青年だったが、その面影は消え去り、髪を伸ばして、一見したところ文学青年にも見えなくはない姿になり、長い前髪に隠れた目は、ガラスのような繊細さと鋭い光が宿っていた。その胸中を推し量るのは難しい。でも彼を見つめていると、なにか、煌びやかな炎に似た、危うい情熱が燃え滾っているイメージが浮かんだ。まるで生き急ぐよう、自分自身と殺し合うかのよう、強い意志は燃え盛り、彼をも焼き始めていた。しかし、その素ぶりは相変わらず落ち着いている。でもすべては裏腹だ、とりわけNに関しては。ひどく不安定だからこそ、穏やかな物腰を保たずにはいられないのだろう。 「マキちゃんに会いにドイツに行くなんて、Nはよっぽどマキちゃんのことが好きなんだろうなあ」  ユズの台詞でわたしを現実に引き戻され、寒気がしてくる。窓をみやると仄かに明るい。もう陽が昇ったのだろう。  Nは大切な友だち。恋の対象じゃない。それに、実はセックスの経験が今だにないように、恋をして、愛し合っている自分を想像するだけでも、幾らか嫌悪感を抱いてしまう。だから、今まで付き合った男の子たちとは、毎回なし崩しで別れてしまっていた。結局、最後には、恋心なんて感じたことがなかった、という結論にでくわす。やっぱりしっくりこない、『恋人』という存在は。友だちでいい。無理な期待をされることもないし、気まずい空気にもならない。それに、なんとなくだけれど、Nはずっと友だちでいてくれるだろう、という安心感がある。 「ユズ、からかわないでよね、もう。Nはそういうのじゃないってば。ユズ、わかってるでしょ、わたしのこと。それに、N、彼女いるみたいだよ。バイト先でどうこうって、この前聞いた覚えがある」  Nがバイト先の女性と交際していたのは、もう一年半くらい前だ。今はどうかよく知らない。 「冗談、冗談。それにオススメできない」  ユズにつられ、わたしは笑う。 「でもさ、この時期にやってくるなんてサンタクロースみたいだよね? プレゼント、キャリーケース一杯に詰めてやって来るといいなあ」わたしはまだ笑ったまま。 「期待通りのことはしてくれるよ、Nは」とユズ。「でも、勘違いされやすいのがほんとキズ。悪い人ではない。でも、全くにわかりやすい人ではない。ま、マキちゃんは、眠って待てばいい。暖炉の前で安楽椅子に体を埋めてね。起きたら、プレゼントが床中に転がってるからさ」  いたずらっぽい笑みを浮かべるユズをわたしは想像する。 「ねえ、ところで」とユズが切り出す。「マキちゃん、好きな人いるんじゃない?」  私は沈黙する。戸惑っている。どう答えようか迷っている。うまい返事は浮かばない。結局、いない、と濁す。そっかという言葉が返ってくる。それと同時にチャットの通知音が鳴る。シンジだ。わたしはタブを閉じる。あとで返事をすればいい。 「クロサキ君と仲良くね」嫌味を装ってわたしは言う。ユズは吹き出したみたい、また笑う。 「あ、もう十時半かあ。そろそろ寝なくちゃなんだ、ごめんね。明日もまた朝早くって」とユズはもう一度謝ってくる。「またかける、マキちゃん。今日はありがとう。夜遅くまで」  もう朝だ。
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