第一部 嘔吐/グラウンド・ゼロ

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 回線を切ると、待ち構えていたかのように寂しさが胸を締めつける。狭くて無機質な感情だ。部屋を模写したかのよう。本当に暖炉があったらいいのに。足は冷え切ってしまった、足枷を嵌められたみたいに。ずっと腰を下ろしていたから、お尻に鈍い痛みがある。わたしは笞刑を思い浮かべる。疲れた。眠りたい。ベッドに横になるのも億劫なほど。なぜだか、食べ終えたチョコレートの袋を一枚一枚丁寧にたたみ始め、知らぬ間全部を結んでいる。まだ寂しさは居座っている。電話中から断続的に聞こえていた、近くの部屋の金切り声が再び上がる。セックスをしているのだろう。隣人はアルゼンチンからの留学生で、たしかホセという名前の男だった。腹立たしさが波を打つ、卑猥な声に似た周期で。 『わたしは、この世界に置いてきぼりになった人間だ』  奇妙な考えが浮かび、イメージが膨らんでゆく。  地球が使えなくなった世界。みなはどこかの惑星に移住してしまった。運悪く取り残されたわたしは、変てこなシェルターで奇妙な隣人たちと共同生活をしている。時折、気が向いて一緒に料理をすることもある。パーティーを開いたりもする。でもそれは単なる憂さ晴らしに過ぎない。歪な日々。けれど、楽しみを見出せないわけじゃない。実は意外と満足していたりもする。寂しさを忘れるため、わたしたちは毎日、万一地球から脱出した場合に備えて、移住先の言語を学ぶ。格変化や構文、慣用表現を延々と読み書き暗唱する。新しい社会の仕組みについても教えてもらう。人々が完全な規則の元に行動し矛盾の一切許されない共同体。感情をコントロールする方法、それも学習する。学業の合間、みんなは異常なほどの大声で笑って、気を晴らす。わたしは雲が十パーセント以下の晴れた日を心待ちに日々を過ごす。快晴のとき、惑星間通信が可能になるのだ。既に移住を終えた友だちと話ができる唯一の機会。わたしはユズに電話をして、自分のひどい状況を伝えようとする。「寒くて、とっても寂しいよ」。けれど二人の時間を汚したくなくって、わたしは嘘をついてしまう。空っぽに思える会話だけで満足して、生き延びる希望をかき集める。ユズはわたしの胸の内を見越して、「もう少しだから頑張れ」と励ましてくれる。「もう精一杯頑張ってるよ、ユズ。早く私も連れてって」。そう言いたいけれど、思うだけ。幸せに過ごすユズの重荷にならないよう願っているのだ。吹き溜まりに似た場所で、刑務作業じみた義務を無限とこなし、刑の執行を待つだけだとしても。このままじゃ、わたしは誰の役にもたてない。いつかみんなの記憶から、わたしは消えてしまう。そう考え、ときどき悲嘆にくれる。「一瞬でもいい、ここから出してよ」。無駄と知っていながらもねだってしまう。「わたしは変わっちゃうよ。ここにだんだんと慣れて、いつか自分でも理解できないほどに、別の人になってちゃうよ」。寂しさに耐える力を身につけなくてはならないのだと、自分を諭し言い聞かせる。「あなたはここで楽しむやり方を知っているはず。『難しいことを考えず、自分の言いたいことだけを言って、他の人よりも先に、したいことをしてしまう』。そうすれば、誰かの文句は聞かなくていい。あの人たち、違う言葉を話すから、なんにも通じやしない。やりたいように過ごせば、気楽だよ、楽しいよ。そのうち、寂しさなんて忘れちゃうから、大丈夫」。わたしは純粋な愛に触れていたい。そのために、わたしは無垢でいたい。  ねえ、ユズ。ひょっとしたら昔のわたしは死んだのかもしれない。そのうち、わたしはユズのことを理解できなくなってしまうかもしれない。ユズに言えないことが、だんだん増えていくように。それはとっても辛い。わかってほしい。でも、伝えられそうにないんだ。わたしは、あなたが褒めてくれるような自分でいたい。ただ、もう一度、目の前で笑って欲しい。今、すぐに。忘れないでいて、わたしのことを。あなたを愛しているの、ユズ。
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