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僕はN。仮名だが、結局のところ名とは単なる記号だ、所以なんてない。姓名いずれかの頭文字かもしれない、あるいは、否定の『ノー』とか『ノン』、ドイツ語における零『ヌル』を示す、好きに解釈すればいい。ともかく、アルファベットの十三番目の次、Nだ。
生まれは日本の小さな田舎町。日本一の自動車生産量を誇ることを除けば、何の特徴もない代替可能な町、ワンオブゼム。高層ビル立ち並ぶ街の流動性はなく、自然豊かな田園地帯の一体性もない、名状しがたい半端な土地だ。だが、ドイルの『失われた世界』みたいに、生まれ落ちた人間はみな選択もなしに生涯留まり続け、肉体が風化する頃、安堵しきった表情を浮かべ骨となる。単調な人生を物語る型に嵌まった形状の家屋が並ぶ町並み、各々、大抵四、五人の大人子供が暮らす。稀に現れる微かな由緒のある古い大きな木造住宅には地主と長男夫婦、それにやはり二、三の子供が暮らす(犬が数匹、場合によっては数十折の鯉がいたりもする)。徒歩圏内、彼らは十ヘクタールほどの田畑を有しており、隠居した旧家長が妻と農作物を悠々自適と育てる脇、名士面の次男以下が劣等感をひた隠しにしつつも門番たる役割の継承に励む。建売住宅もなくはない。だが、都市ほどの密集はなく、やはり、町内の工場で生産した車を二台、玄関脇に収めては園芸を楽しむ余裕がある。幾らか凹んだ窪地に集合住宅が設けられている。隠れるみたいにひっそりとした様相、都会と全くに異なる趣。住人はおしなべて、低所得、ともすると生活保護受給者であり、結婚相手を求める工場労働者が合間を埋める。公営であり管理は杜撰、今にも改修工事が必要な有様で九龍城を彷彿とさせる。夜な夜な、打たれた子供は泣き喚き、いきり立った若者集団はバイクで唸っていた。やり場のない怒りだ。うちの一つ、とある公営住宅棟の北の斜面を登れば、僕が育った家がある。辺りで一番高い台地にぽつんと立つ灰色の瀟洒な邸宅。そこからは、町を一望することが出来た。自然、見下ろす形でだ。僕の父親は、何を思ってかその土地を買い取り、堅牢な住居を構えた。父は外部からの移住者であった。昨年、癌で死ぬ前に問うべきだった。答えはもう闇に葬られた。いずれにせよ、その家のせいで、僕は子供ながら、自分が町の支配者だという思い込みをした。だからもちろん、友人は少なかった。教師からも嫌われていた。傲慢で特権意識の強い人間は、輪を乱す、忌避すべき存在でしかない。一人っ子であったことも関係しているだろう。他人との適切な距離が分からなかった。結果として、僕は従順な手下を望んだ。多少の物好きはいる。興味本位で近づいてくる連中だ。でも半年もすれば毎度お馴染み、無言のサヨナラ。小学校も高学年となる頃、友人など無理して作る必要はない、そう考えていた。だからほとんどの時間、自分の部屋で過ごしていた。目に余ると思ったのだろう、両親は二人して代わる代わる話をしに来ては、次第勉強を教えるようになった。時をみて彼らは、離れ街にある私立中学へ行かないかと提案した。僕は二つ返事で了承した。
父親は教師だった。家から徒歩三分の公立高校で現代社会や倫理を教えていた。母親は米文学の翻訳家だった。彼らは基本的に家にいた。滅多な用事のない限り、休日ですら外へ出なかった。ただ一つの趣味は二人して読書。家には図書室があり、四方の壁一面、文芸、教養、哲学を中心に実にたくさんの本があった。その灰色の邸宅は、言うなれば本の虫が編み上げた繭だった。誕生日やクリスマスのプレゼントも、もちろん決まって本だった。ともすると、それは彼らなりの英才教育とも言えるが、今思えば、単に子供が貰って嬉しいものを想像できなかっただけだろう。でもそのせいで、僕は本が嫌いだった。中学に入るまではまだよかった(結果として、僕はその私立中学に合格した)。まだ自我は眠っている。宮沢賢治やミヒャエル・エンデを通り抜けたティーンとなり、漱石とか三島、それにフォークナーやフィッツジェラルドへと移行するよう促される頃、僕は完全にボイコットを決め込んだ。反抗期の少年らしく、親の悩みの種となったわけだ。でも一人っ子で基本的に放任されていたから、何もお構いなく、僕は両親への裏切りを加速させ、行儀の悪い友人たちとつるんでは、煙草を吸いながら放縦な少女たちと戯れ呆けた。有り余るエネルギーは何らかの捌け口を自ずと見出すのだ、空吹かしで虚勢をはるのに似て。
そんな有り触れた思春期のある日、何をするでもなく部屋でぼんやりと寝転んでいると、僕は突然、驚きでひっくり返った。空白を埋める目的で流していたラジオから、美しい音色が聞こえたのだ。それはまるで別世界からやって来たほどに幻想的で、感じたことのないほどの多幸感をもたらした。演奏をしていたのは、アメリカ、シカゴ出身のロックバンドだった。僕はやおら起き上がり、しばらくそのまま耳を澄ませた。そして曲が終わるやいなや、騒がしいパーソナリティーが口にする情報をノートに書き留めユーチューブで検索し、何十遍と、夜が更けてもその楽曲を繰り返した。翌朝、抽斗の隠し棚に貯めてあった二十万円を通学用の鞄に詰め、放課後、僕は隣町の楽器店に立ち寄った。ギブソンのSG、フェンダー製の小さなチューブアンプを手に入れた。そして僕の人生はギアが入ったみたいに、前進を始めた。もう空吹かしの暇なんてなかった。簡単なコードのあらかたを学び、定番のリフ・フレーズをさらい、年が明けるころには、自作曲を作るようになっていた。似たようにロックに惹かれた同級生はやはり一定数いて、彼らに声をかけてはバンドを組み、休憩時間も放課後も時間の許す限り音楽室へと赴き、ギターを掻き鳴らした。僕は歌ってもいた。件のシカゴのロックバンドは、ワイルドでハンサムなギター・ボーカルを中心に形成されていた。憧れは当然、模倣へと繋がる。幼少期の数年間、母親がピアノを教えてくれていたからだろう、僕には少なからず音楽的センスがあった。友人たちも才能があると言った。そうして身の程知らずな夢は膨らんでいった。プロのロックミュージシャンになる。そのためには東京に行く必要がある。思い込みこそが活力を生むのだ。現実問題として(子供に現実というものがあればだが)、一番の近道は東京の大学へと進学することだ。そう僕は考えた。当時も全くに勤勉な学生ではなかった。学業を見下し、やんちゃな音楽にかまける輩なんてみんなそうだ。しかしながら実のところ、成績は悪くなかった。両親のおかげ、英才教育の賜物だ。授業を受けるだけ、ほとんど机に向かわずとも、上位一割から漏れることはなかった。高校に上がり(中高一貫校だった)、周囲の話題が受験勉強へと移行し、同じくしてバンド仲間が欠け始める中でさえ、僕は音楽中心の生活を送っていたわけだが、結局さしたる苦労もなく成績を保ち続け、都内の大学への合格を手にした。そして十八歳、春の訪れを感じる暖かな三月の終わり、念願の東京へと僕は足を踏み入れた。ひどくヤワな希望だけを連れて。
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