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現実を見よう。目を開けば選び抜かれた舞台、築五十年八畳一間、狭いユニットバス付。杜撰な装置だ、と何度思ったことか。一度も家と認識できていない。が、僕は充てがわれたもので満足しなくちゃならない。送る日々は全くに平坦。独特といえば、きっかり四日毎、食パンの消費頻度と同じなわけだが、僕の目覚ましが鳴ると隣の住人がドアを思いっきり蹴り上げる現象くらいなもの。居留守もなにもないから思いつく限りの謝罪を繰り広げる僕に、彼は不明瞭な呪いの言葉を怒鳴り散らす。超訳すれば、「仕事帰り、食パンを買い忘れないように」、親切な御仁だ。くだらん。ともかく、壁の厚さに予算をかけていない。ベランダはない。あるのは、都会的イメージに相応しい窓。無機質な家屋を映していて、光を極力取り込まないよう設計されたようだ、無駄に大きい。夏はまだいい冬は最悪、凍えるほどの冷気を部屋に送り込んでは僕の胸を震わせる。そこから首を出せば、足元に七番目の円環、つまり環状七号線が南北に伸びる。製作者の意図が隠れているのかもしれない。隠喩? くだらん。ともかく、困ったことに誰も移動の指示を出してくれなかった。故に僕はこの場所で暮らしてきた。
でも、ここを去ると決めた。今日が旅立ちの朝。日本を置き去りに、夢の国、ドイツへ向かう。誰にも文句は言わせない。アルバイト先には自主退職の書類を出した。大学も、年度一杯ではあるが休学は有効だ。漠然でもない、漫然でもない。無論、竦然でも。厳然と公然だ、権利を行使し何一つ問題ない。加え実際のところ、僕一人が欠けて困る人なんていない。時給労働者は根本的に替えが効くものだし、法律の勉強なんてのも、誰かが代わりにするだろう。優秀な人材はごまんといる。僕には存在理由がない。偶然居座っていただけだ、この場所に。
目覚ましのベルが鳴り響く。隣人愛が発揮されるのは、明日の予定である。十二月十七日午前七時五十分、そう時計は示している。あと七時間、もうすぐだ、僕は離陸する。まずは布団から。
普段通り、湯を沸す、顔を洗う、カップヨーグルトを一つ手早く胃袋に入れる、コーヒー豆を三十グラムコーヒープレスに入れ少量をこぼす、湯をゆったりと注いで蒸らし香りを嗅ぐ、満足する、ベーコンとチェダーチーズを敷いた食パンを焼く、マッチで煙草に火を点ける、窓を開く、淀んだ空気と排気ガスがくしゃみを引き起こす、パジャマに飛んだ痰はクリネックスから屑籠へ、焦茶のコーデュロイズボンと白いボタンダウンシャツ、オリーブのセーターをプット・オン、CDプレイヤーをターン・オン、プレスの上澄み液を流し捨てる、もう一度香りを嗅いでは中身を混ぜ、カップを温めた湯でマドラーを洗う、コーヒーはマグ、トーストはオーブンで温めておいた平皿へ、テーブルと陶器が立てる音が数度鳴り響く、回転椅子に沈み込む、煙草を擦り消す、朝食が終わる、髭が剃られ髪は濡れるも、寝癖が残る。
僕はもう一度、回転椅子に体を埋める。いささか冷たい風が窓から流れている。熱した頭には丁度いい。もう十二月だ、世間では冬として扱うだろう。けれどまだ、僕は秋に別れを告げられない。全てが物憂げに黙りこくり、従容と死を受け入れる準備に勤しむ時節、秋。僕は君が好きだ、一番に。昔は春の終わりを愛していた。あの、爽やかで芳しい草木の香りに漂う、甘酸っぱい、何かが弾けそうな鮮やかな空気。胸を一杯に吸い込めば、幸福に触れた気になった。だが季節は変わり、人も変わる。春も夏も、今ではげんなりする。街に出ようという意欲が削がれる。僕は倦んでしまったのだ。あの、街行く人々の陽気なから騒ぎに。一年の大半、部屋に籠り秋を待っている。心優しい彼女は毎年必ずやって来て、僕を癒してくれる。けれど、やっぱり、いつかは去る運命にある。別れはつらい。もう、彼女なしでは生きてゆけない。今年の僕じゃ、もう耐えられない。本物の死は確実に近づいている、冬の訪れとともに。何かが、僕の中の大事な何かが、間も無く完全に死に絶える。今度ばかりは歯向かえない。冬は今日、契約を終えた足で引越しの挨拶をしに来た。窓から運ばれる胸を刺す冷たさは、粗品みたいなものだ。百パーセントに近い素晴らしい朝、ひどく陰鬱な気分で窓の外を眺めている。空は狭い。
『あたいの車、運転すればいいじゃん。そしたら、あんたのこと好きになっちゃう』
スピーカーはビービー騒ぐ、陽気さそのもの。
冬は間も無く移住を終える。梱包を解き腰を落ち着けるのに、何日もかかりはしない。でも大丈夫だ、十五時〇五分、今日の昼過ぎに僕はミュンヘン行きの飛行機に乗る。彼と対面せずに済むだろう。空っぽの部屋を見て、彼はどう思うだろう? 少し失望させるかもしれない。毎年僕らは、比較的仲良く生活してきたのだ。しかしところで、本当に冬は男性で秋は女性なのだろうか? あとでマキに訊いてみよう。それぞれ、女性名詞なのか、男性名詞なのか。また、「くだらないこと考えるねえ」なんて言われるかもしれない。悪くない。彼女と話せば心が和む。僕はマキを求めているし、多分マキも、僕を必要としてくれている。
七番目の円環を移動する物体らは運命を嘆くようにがなり立て、大きな窓を通じて届く不平に僕は嗤わずにいられない。窓を閉じる目的で立ち上がるが、窓枠直下、梱包済みのスーツケースが目について、最後の荷造りを行う。詰められた物資は僅か、一週間分の衣服、アメニティ類、それにマキへのプレゼント。五十リットルのケースにはまだまだ余裕がある。けれど他に何を持っていくべきだろう?
何気なく見遣る先には堆い段ボール、天辺の箱が開いたままで実家からの本が覗いている。上から五冊、僕は考えもなしに取り出し、空白を埋めてみる。
『心は孤独な狩人』
『どうして僕はこんなところに』
『鏡の中の鏡』
『人間の本質』
『夜の果ての旅』
悪くない。
やっとのこと窓を閉め、ブレイカーを落とす。突然にひっそりとした部屋を見渡すと、自分が空き巣だという錯覚が生じる。間も無く、いや今すぐにでも、本当の住人が帰って来る、僕ではない、誰か他の人間が。存在と欠落の間に漂う空気は僕を駆り立てる。
扉を開いて部屋を出ると、そこは別世界だ。
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