第一部 嘔吐/海も嫌いで、山も嫌いで、都会も嫌い

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『実際のところ、冬は男だけの世界に属している』とある作家は書いている。 『眠ることを恐れて寝入った野郎どもの魂は、大気に集積しては無言で通りを闊歩し、気付かぬ間に就籍している。その街とその住人が冬だ。季節とは孤独の副産物にすぎない』  N、君も似たようにドイツへ行く。君こそが冬だ。  古い話をしよう。遠い昔、冬の寵愛を受けた支配者がいた。名を冬の大君と言った。領土は小さくもなく大きくもなく、千の冷酷な部下がいた。とある金曜日のこと(それは偶然にも君の旅立ちと一致する)、彼の親衛隊は一斉に千の戸を叩き、駅に行け、電車に乗れと命じた。「冬の大君の名の下、君たちを楽園へと連れて行く」、そう約束して。チェーンを掛けたままに扉から顔を出す市民たちは、驚きの表情を浮かべては証書を求めた。親衛隊が鞄から取り出した書類を見て、誰もが歓喜の涙を流した。長い間、市民は支配者に請願を続けていた。『楽園へとお導きあれ』。親衛隊は「反抗や意志薄弱、歩行不能と判断した場合」と上着から銃身を散らつかせながら添える、「予告なしに治安維持活動を行う場合がある」。市民は好都合と考えた。楽園に不穏分子はいらない。  一時間もしないうち、楽園を夢見る市民は各々の輸送機関に揺られていた。だが、必ずしも好ましいばかりでないと、みな薄々気づき始めていた。当時、バスや電車には暖房がなく、隙間風は否応なく体を痛めつけた。結局、幾週間も続いた移動は、二割の命を奪い(公共の福祉の観点から、屍体は窓から放り出された)、生き永らえた大半をチフスや結核の罹患者にしていた。  始まりと同じで予告なしに、四十六台のバスと古い型の車輌三十一両は低木ばかりの大草原で唐突に停止した。過酷な旅が終わったと安堵する市民に、外に出て一箇所に固まれと、親衛隊は指示を与えた。五分後、即席の広場が形成されていた。半径五メートルほどの空間が無言の申し合わせで中央に設けられ、一方の半円は市民、他方は親衛隊が群がる。やにわ、黒塗り装甲車が大きなエンジン音を立てて近付いてきた。やはり内円の中央で静止した車は、扉を開かぬままで十数秒の沈黙を演出し、かの支配者、冬の大君が姿を現した。割れるような拍手が轟く中、支配者は露草の上に降り立ち、ゆっくりと右手を上げた。静寂への変化は一瞬だった。沈黙には風が唸り、太陽は赤い光を翳していた。明瞭なよく響く声で、冬の大君は市民に背を向けたまま、話しかける。 『なにもしないときこそ最も活動的であろう?』  沈黙。戸惑い混じりの喝采が続く。 『一人でいるときこそ最も独りでないのだ。諸君は楽園から追放された。もはや死があるのみ』  大君は突然、大声で、壊れたラジオみたいに不気味な笑いを繰り出した。発作が収まらないままに軽いこなしで車内へ戻る支配者を送り出すように、背後を囲む親衛隊員は熱狂の歓声を終わりなく続けた。市民はと言えば、無言、虚ろに立ち尽くしたまま、一人、また一人と、ドミノみたいに倒れこみ、そのまま意識を失っていった。最後の一人が横になると、親衛隊は市民の上に灯油を撒いた、『一人でいるときこそ最も独りでない』、マントラを唱えながら。一本のマッチが擦られ、浮かんだ小さな火は一瞬で草原中を駆け回り、灌木と市民を灰にした。後には何も残らなかった。真っ暗で空虚な魂の安らかな眠りを除いては。  遠い昔、遠い国の、この世界では有名な喜劇だ。  そこは地獄か? 楽園か? 支配者と親衛隊はどこへ行った?   時折ふと首を傾げる、何気ない瞬間、彼らは視界を掠めてゆく。  思うに、彼らは消えてなどいない。終着地において、今も君を待っている。  だが終着地などないのだろう。私の話を聞くものがいないように。  この部屋には誰もいない。二本目のペプシコーラが泡を吹き出すだけだ。
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