第一部 嘔吐/蚕の声を聴きながら

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第一部 嘔吐/蚕の声を聴きながら

「仕立てをやったことはないのだね?」 と女将がたずねた。 「ええ、いちども」 とKが答えた。 「もともと何をしている?」 「測量です」  今日は日曜日。私は広場の脇のベンチに腰を下ろして、膝に本を乗せている。少し離れた広場の中央、臣川の辺りにはおばあちゃんがいる。社人さんたちと彼岸祭の準備に励んでいるのだ。時折悩ましげに腕を組んでは、議論に熱が入る。でもやっぱり、打ち解けた雰囲気。みんなの沸き立つ気分がここまで届いている。もうすぐ、春。足元、ベンチの影で寝転ぶ猫も、枯れ木に休む燕の家族も、たまりに潜るいたちたちも、みんな、うららかな季節の香りを胸一杯に吸い込んでいるみたい。私はふと目を閉じ、地中深くでうごめく無数の生物を思い描く。春が来れば、彼らも地表へと姿を現す。そして、遍く生命に養分を与えてくれる。
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