第一部 嘔吐/蚕の声を聴きながら

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 学校が近くにつれ、避難する人は増えてゆく。島民全体、二百人以上が向かっているのだ、普段は呑気にゆったり広がる町並みは途端、砂埃の舞う、狭く息苦しい、騒擾の雰囲気に包まれている。みな足取りは確か、一見落ち着き払っているよう。でもやっぱり、不安の影は拭いきれていない。周囲は誰も、あのいつも柔かなおばあちゃんも、厳しい表情で黙りこくるばかり。砂利が踏みしめられ、抱えられた子どもが泣きわめく。それを除けば、緊急を知らせるサイレンが繰り返されるだけ。 「校庭で待機してください」という声が通りを抜けてゆく。ぐるりで役場の人たちが避難の呼びかけを開始したのだ。 「なあ、キイコさん」ふと後ろからおばあちゃんを呼ぶ声。「ちょっと、キイコさん」  振り向くと町長さんの姿がある。還暦を過ぎたばかりの、恰幅が良くて薄くなりつつある髪を気にしている、陽気なおじさん。でも、いつもの面影は、全くに取り払われている。重大な言伝を運んでいるかのよう、緊張で口を真一文字に結び、慌てているのか小走りで、額には汗が垂れ、息が切れている。 「キイコさん、少しいいですか? ああ、やあメイコちゃん」  私は頭を下げる。 「リョウイチ君は今どこに?」お父さんのことだ。  私はおばあちゃんと顔を見合わせて、首を横に振る。 「そうか」という声には苛立ちが棘のようにささくれている。「困ったな」と二度呟く町長さんは、項垂れ溜息をつく。見ているだけで重苦しくて、不安が胸を締め付けてくる。 「会えたら、私が探していたと伝えてください」 「はい、わかりました」と私ははっきりと口にする。自分の中で膨らんでいる嫌な予感を取り払うかのように、その言葉は無駄に力が篭っている。おばあちゃんは私を見遣っては、ぎこちない笑顔を浮かべる。痛みが取れないままに、無理してはにかんでいる様子で。 『状況は最悪だ』、『間も無く、町は崩壊する』。町長さんの慌てぶりは、子どもの私にも十分なくらい、島が被りつつある災禍のほどを物語っていた。普段の町長さんは、決して厳格で重々しい口調はならず、言うまでもなく、苛立ちとは縁遠い人なのだ。 「お父さん、どこなのかな?」とおばあちゃんに訊ねる。でも、おばあちゃんは私の言葉を遮り、町長さんを呼び止める。儀式の時のような凛々しい表情を浮かべている。 「なあ、町長さん」  町長さんは振り向き、驚きのせいだろうか、目を見拡げる。 「リョウイチ君を探すのはやめんときんさい。今は、避難を進めるんが肝要」  しばらく、狐につままれたように呆然とした顔つきで、町長さんは私たちの方を見つめる。そして、口を真っ直ぐ結ぶ。いくらか涙を堪えているようにも思える。しかし、次第に我を取り戻したかのように目元が緩んでいく。幾らか、本来の町長さんが戻ってきたような感じがする。  ふと、砂埃が私たちの間に流れてくる。丁寧に頭を下げると、町長さんは茶色に霞む景色の奥へと向かう。砂塵は勢いを増す。耐えられずに私は腕で目元を覆う。再び視界が開けた頃、町長さんの姿は消えている。私たちは校庭へと急ぐ、不穏な余韻が消えないままに。
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