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海は荒れている。普段なら絶対に船を出せない。雲は、島を出るときには空を覆い始めたばかりだったが、今ではもう島全体を包み込んでいる。結局お父さんは来なかった。南の港から別の船に乗ったのかもしれない。でも、きっとそうではないのだろう。お父さんの身にとてつもないことが降り掛かった。その想像は、厳然たる事実としか思えない。そうでなければ、おばあちゃんもお母さんも、あんな風には振る舞わない。どうして、お父さんが側にいてくれないのだろう? どうして、こんな形でお別れすることになったのだろう? ごった返し、所々で嘆きの嗚咽と諦めのため息が混在する船上、私の内側からはむしろ、憤りと、涙を零すほど大きな怒りだけが止めどなく溢れている。
「南のたまりで爆発があったんだ、工事の不手際が原因だろう」、「社のあたりで突然、噴火したんだ。火山だよ、火山」、「くわばらくわばら、カミサは恐ろしい試練をお与えになる」、「政府の陰謀だ、発電所と諮って島を台無しにしやがった」。
憶測は様々に飛び交う。確かなのは、目に映るものだけ。まずは、島内部から上がる何本もの灰色の煙柱。フランケンシュタインが自身の闇に呑まれたみたいに、島自体の輪郭は殆ど失われいている。それに、足元を揺らす激しい波、不快な船内。酔って気分が悪くなる人がいて、嘔吐してしまうものも当然いる。けれど、何十もの鞄と横になる子供や体の弱い人老人たちで足場がないから、船の縁まで行くことが出来ない。吐瀉物はデッキの上に撒き散らされ、悪臭でさらなる嘔吐が誘われる。地獄だ。そして口だけで息をしていると喉が渇く。もちろん、十分な食料も水もない。お母さんは水筒に残った水をくれる。私は感謝を告げ、お母さんの震える手を握る。私たちはこれから、二人だけで生きてゆかねばならない。
ぽつり、と水滴が頬を伝って行く。雨だ、霧と紛う程度の微かな雨。でも、私たちが途方に暮れるには十分過ぎる。濡れる衣服は皮膚にこべりつく。体温が奪われ、寒気はさらなる震えをもたらす。そして、体にはむず痒さが現れる。「カミサはひどい仕打ちをする」私は思う。
「なあ、メイコ」
リーダーが周りに聞こえないように、小さな声で話しかけてくる。偶然一緒の船になり、彼と隣り合わせでずっとうずくまっているのだ。
「お前は、本当は何が起きたのか、知ってるのか?」
知らない、と私は答える。
「おれたちな、あの後、みんなでたまりに向かっただろ」
私は頷く。
「見たんだよ」
「え?」と私は大声を出してしまい、口を両手で塞ぐ。
お母さんが私の方を向く。私は頭を振る。
「俺たちは見たんだよ」
「だから、なにを?」
「死体」彼はやっぱり無表情だ。「二人、多分、男だ。たまりで、二人死んでた」
『死んだ』。私は呆然としている。それはお父さんなの? そう訊こうとするが、私たちの会話を聞きつけてか、お母さんが私を引き寄せ、彼との間に距離が生まれてしまう。お母さんは男の子に、余計な事を言うなとでも叱るかのような、厳しい一瞥を与える。でも私は手を払いのけ、リーダーに訊ねる。
「死んでたって、誰が?」
と、大きな揺れが生じる。船中からは悲鳴があがる。みな反射的に近くのものに掴まり、私はおかあさんのワンピース、おかあさんは私のスカートの裾を引っ張る。他の誰かも私に捕まろうとしたみたいで、私はバランスを崩す。「波だ!」と大きな叫びが上がる。みな一斉に正面を向く。少なくとも十メートルありそうな高波が地平線からこっちに向かってきている。私は呆気に取られ、おかあさんは涙を流す。「島が!」という叫びで、私たちは一斉に振り返る。一面、雲の灰と海の黒に支配された光景が広がっている。島は視界から完全に消え失せていた。その時、島の方で何かが光る。一瞬の、でもとても鮮やかな光。輝きに目を奪われていると、鼓膜を揺らす大きな低音が続く。耳を覆う私たちに向かい、重く分厚い空気の束がものすごい速度で風に運ばれていて、恐怖を感じる間断なく、首の骨が折れるほどの衝撃を残してゆく。とてつもなく強い風。十秒ほど吹きさらし、船上から一切の音を奪う。それが去ると、みんなの悲鳴があがる。今では大波は間近に迫っていた。船は掬われ、天へと向かうかのよう、船首を上げては高く高く天辺へと傾いてゆく。私たちの真下では黒い渦が激しい勢いで回転している。
『引き摺り込まれる!』
その予感に誰もが恐怖で救いの言葉を喚き散らす。だが、無慈悲にも、光のない海中へと私たちは落ちていく。
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