第一部 嘔吐/蚕の声を聴きながら

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「メイコ」私の名を呼ぶ声。「大丈夫? うなされてたよ」  ? 「何度肩揺すっても起きないんだもん。心配したよ」  誰?  「いやな夢だったの?」  夢? そうか、夢か。  目の前には二十歳くらいの女の子。セミロングの黒髪、えんじ色のセーターは丸首で、下はブルージーンズ。黒のナイキのスニーカーを履いている。丸まるな顔には、うっすらと笑顔が口もとに浮かんでいて、大きな黒い瞳が可愛らしい雰囲気を作り出している。私はこの子を知っている。留学先のドイツで知り合った友人、マキ。 「メイコ、大丈夫? タイムリープでもしたみたいにボンヤリしてるけど」マキは本当に心配している様子だ。うなされてでもいたのだろうか? 「大丈夫。ごめんねマキちゃん、心配させて」私の声はひび割れている。「変な夢だったの」  マキはやっぱりと呟き、「何度も『お父さん』って繰り返してたよ」と口にする。 「え?」私は動揺を隠せない。「うーんと」と二度口ごもる。「私、お父さんいない」  それを聞き、マキは慌てた様子で私に謝る。ファザーコンプレックスを拗らせた女の扱いは一般的に難易度が高い。マキが黙りこくるのも当然だ。やれやれ、普段は意識せずとも、私は父親をどうしようもないほどに強く求めているかもしれない。ジークムントなんとかという精神科医のせいで、夢が個人の深層心理を反映しているという見解が一般的になったわけだけど、私はユングを支持する。他の誰かの記憶なのだ、この夢は。ここ三ヶ月、数日おきに繰り返し見ている。目を覚ますと毎度、干物になったかのような、何週間も砂漠を歩き回ったみたいな渇きがある。かたや下着はぐっしょりと湿り、脇と股にぬめりがある。大抵、訪れるのは夜更けも過ぎる頃。私は二度目のシャワーを浴びる羽目になり、余分にもう一着パジャマを消費する。そして、蚕の鳴き声に似た夜の騒めきを聴きながら鳥が囀る中、やっとのこと浅い眠りに就く。  奇妙な夢だ。私には祖母も父もいない。母親と義理の父、そして義理の兄がいるばかり。それに生まれてこのかた、ドイツを除いては東京でしか暮らしたことがない。思えば、この夢を見始めたのもドイツでの留学を開始してから。何か関係があるのかもしれない。そのうち、時間をとって考察してみる必要がある。もちろん、フロイト的解釈は採用せずに。 「もう、あと三分くらいで着くよ」とマキ。  そういえば私はどこにいるのだろう?  青い布の貼られた座席、枠構造としての無機質なアルミのパイプ。延々と同じ光景が続いてゆく。まるで合わせ鏡を覗きこんだかのよう。同じように奥で無数に繰り返されるように見える電光掲示板が上部に設置されており、アルファベットと数字が映し出されている。  電車内だ。提示された情報の限り、間も無く、私とマキはミュンヘン空港に到着する。  なぜ?  記憶を探れども情報は見つからず、仕方がないのでマキに訊ねる。 「え、メイコ、本当にタイムリープでもしたの?」  あるいはそうかもしれない。仕方なしにぎこちない笑いを浮かべていると、マキはため息をつく。 「Nを迎えに行くため」  N? マキは疑問符を察する。 「私の友達。大学の同級生で、バンドマンで、ユズのエクス・ガールフレンド」。元恋人。  赤ん坊の頭骨のように、私の記憶は縫合されてゆく。そうだ、だから講義の後大学駅で待ち合わせ、一緒に食事をしては空港行きの電車に乗ったのだ。覚えている、今日の講義は確かボードリヤールだった。『湾岸戦争に関して、ボードリヤールは、戦争がアメリカ人たちによってあらかじめプログラミングされ、その出来事はプログラミングにしたがって展開されたと述べています』、『この潜在的な戦争は、彼にとって、文化全体がいまやひとつの欺瞞の歯車とかみあっているとでもいう以外には、説明困難な病気の兆候のようなものなのです。つまり、あの戦争の目的は戦争そのものだったのです』などと語っていた。ドイツの大学ならヴィトゲンシュタインを扱うべきなのに、と私は思った。講義が終了すると、教授はレポートを課した。テーマは『現代社会における等価交換』。実際問題として、本来の私はかなり記憶力がいい。 「思い出した、完全に」と言うと、電車はブレーキをかけ、減速を始める。 「今日のメイコは、ひときわ曰くありげね」マキは笑いながら立ち上がる。 「呆れるくらい変な夢なの。予言にも、誰かの記憶にも思える。錯綜しているんだけど、妙に現実的、キューブリックの映画みたい」、そう呟きながら私も揺れる車内を歩いてゆく。 「でも手触りや臭いもある。私はそこに実在していた」 「胡蝶の夢?」マキは首を傾げる。 「ううん」私はマキにウィンクをする。「時間跳躍」  マキが満足そうに微笑むと、扉が開く。
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