0人が本棚に入れています
本棚に追加
話をすれば話をするほど、Nが奇人という認識は強まってゆく。
「どうしてダッフルコートなの?」
「宗教的理由さ」
「は? どんな宗教なの?」
「名前はない。あるのは教義だけ。だがそれも、言葉に出来ない。ただ体に滲み付けるべきものなんだ」
「うーん、まあいいや。ドイツに来たのはなんで?」
「日本を離れたかったんだ」
「なるほどね。その気持ちよくわかる。でもなんで行き先がドイツなの?」
「とく理由はないよ」
「とくに、ない?」
「ああ」
(沈黙、彼は電車の窓を見つめるが目にしたのは自分の姿だけだろう)
「これからの予定は?」
「まだ決めていない、これからだよ」
「そう」
(沈黙、私は窓を使って前髪を整える)
「メイコさん、大学では何を研究してるの?」
「フランツ・カフカ」
「フランツ・カフカ?」
「知ってる、よね? 『変身』とか『流刑地にて』、『失踪者』、それに『城』とかさ」
「もちろん、ドイツ現代文学界、最高峰の作家だ」
「一般には、まあそう、ね」
「テーマは?」
「まだ明確じゃない。でも、作品はもちろんだけど、カフカ自身の生涯について関心があるんだ」
「どういうことだろう?」
「ブレヒトとかベケット、知ってる?」
「聞いたことは」
「それぞれ作品を読むと、ブレヒトは生きたがっている、ベケットは死にたがっている、って感じるの。作品世界を離れた、作家個人としてね。でも、カフカに関しては一切わからない。毎日十時間以上保険会社で勤め上げる中、莫大な著作を執筆した、途轍もなく勤勉なカフカ。残念ながら四十という若い年齢で世を去ったけれど、彼は生を欲していたのか、受け入れていたのか、それとも呪っていたのか、明確なことは何もわからない。解釈への道筋が完全に断たれているの。まるで宇宙空間を漂い続けるスペースデブリみたいに」
「スペースデブリみたいに」
(なぜ繰り返すのだ?)
「君は? 君も何かの研究をしているの?」
「いや、これといっては何も」
「そうだ、君は音楽家なんだっけ?」
「どうだろう?」
(沈黙)
最初のコメントを投稿しよう!