終点 とてつもないドイツ

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「では、また」と、鈴の音が続く。  文庫本をカウンターに置いて、私は扉の元へと向かう。客を見送るために。どんな事情があろうと、習慣はひっそりと敬虔に守られなければならない。私は二度深々と頭を下げる。少しの間、手を振る。そして、風に吹かれるままに足取りを目で追い続ける。暗闇に紛れるのを認めるまで。  無事に終えることが出来た。私は安堵する。緩い歓びが潮のようにそっと押し寄せている。店を片付け終えれば、すっかり満ちるだろう。これは祈りだ。日々が絶えぬように、無垢な夢がひび割れぬように。春待つ蕾に似ている。その息吹こそが雪を解かす。  店内、時の名残ががらんどうの空間に積もっている。清掃しなくてはならない。まず、残されたグラスや皿、スプーン、ナイフにフォーク、それらすべてを流しに入れ、避けておく。次に、空になったテーブルを拭き上げ、椅子を逆さに上に乗せ、床一面を掃きあげる。隈なく。明日へ持ち越してよい汚れなどない。だが当然、無理なことはある。無理はしない。そして物を洗う。効率を悪くしないよう、シンクの大きさを配慮する必要はあるが、丹念に作業に取り組むのは同じだ。一度に纏めない方がいい。時間は捻くれ者だ。先ばかり気にしても、今だけを重んじても、手元からすり抜けるだけ。彼女を獲得するには、真似をすればいい。滑らかに、緩やかに、求められる動きを絶え間無く繰り返す。知らず、時は私たちの手の中にある。そっぽを向いていれば、自ずと尻尾を振ってやって来るのだ。しかしながら、水を払うのは間髪入れずだ。一旦垢が残れば、そのうち手を抜くのが当たり前になる。予兆に気付くことはできない。だが、悪事が必ずや顔に塗りたくられるように、私は私でない存在になってしまうだろう。だから決して、欠かしてはならない。儀式だ。春の訪れを祝う壮大な儀式だ。季節を齎すのは、時でも自然でもない。余念のない強い意志こそが、針を動かし日々を健全にする。実直に、直向きに。それだけだ。実のところ、生活が必要とするのは僅かで、生きることはひどく単純なのだ。だが簡単ではない。
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