終点 とてつもないドイツ

4/5
前へ
/36ページ
次へ
 僅かなノイズは丁寧に椅子を引く上品な客、彼が奏でる奥床しい音を私はずっと待ち望んでいる。そして彼らは腰を下ろす、三本のエレキギターが絡み合っている。有機的だ。量感がある。音像は膨れ上がり、幻想的な世界を孕んでいる。倍音が空間に満ち溢れ出す。数珠のごとき静寂を束ねることによって形成される蚕は塊となり、私を含む。その幽玄な空間は重層的で渦巻いている。私は足を踏み入れている、彼方の別世界へ。まるで絢爛な部屋だ。精緻な装飾が施された、刻まれる印は豊潤な深淵を暗示している。誰かが扉を開き、中へやって来る。姿のない彼は口を開く。ひどく嗄れた声は、あらぬ遠い方角から舞い降りたように浮遊し揺らめいていて、抑制が効いている。彼は歌う。滾る逆説的な希望を、諦念に隠された理想を、不毛な土地に芽吹く愛を。 “とてつもないドイツ” “とんでもない日本” “何時行こうと どこへ着こうと”  ああ、美しきドイツ。私はかつて訪れたことがある。とても長い間、私はそこにいた。 “僕の中のそいつを なんとか言葉にしてみる” “とてつもない ドイツ” “とんでもない 日本”  どれくらい前だろう。記憶には誤謬が付されている。基軸すらもぼやけている。原型を取り戻し得ないほど改変されている。恐ろしく遠い。忘却、喪失、虚無。何も思い出せない。頭が上手く機能しない。浮かぶのは、白い空と黒い壁だけ。いや、これは本当に空なのだろうか、壁のなのだろうか。いや、それは実際に、白い空と黒い壁だ。私には分かる。だが、それだけだ。血管を広げ支えるステントは時とともに朽ちるが、時に流れを阻害する要因ともなるように、一度取り入れたものは簡単には除去されない。だからその記憶はどこかで眠っている。しかし、見つけられない。私の血流が問題なのだろう。いや、別のステントが原因なのかもしれない。いずれにせよ、どんな過去にもリスクがある。すべての療治に危険が内包されるように。あれは治療行為でもあった。孤独に冒され、波に呑まれそうな自我は死にかけていた。私は今、正常な流れの中にいる。  生まれてからずっとここで暮らしている。時折、その幻想は現実と思える。ひどく適切なイメージなのだ、高所から低所へと水が滴るような自然の摂理に近く感じる。でも実際には、私はどこか別の場所で生まれ育った。しかし、時間の感覚は相対的で一定には流れないように、過去というものもまた、不確かだ。私たちの感覚は不安定で、レンズに様々な傷を抱えた眼鏡に似ている。歪で不明瞭にしか知覚し得ない。実体を持たない過去は崩れかけた概念としてのみ存在する。誰もがそうであるよう、私の記憶、私の認識には遺漏がある、無理もなく。 “礎石的な問いさ” “みな、直面せざるを得ない”  視界の際を横切る存在が常にいる。それは奇妙な懐かしさと歪な幸せを残してゆく。捉えがたい曖昧な感覚を遊ばせるまま、私の意識は揺れ、意識が浮き沈みを繰り返す。それはかつての私なのだろうか? それとも、いつかの私なのか? 長く荒野を彷徨い、風雨に打たれながら、ひたすらに歩き続ける男。鞄も杖もなく、目的もない。オアシスも、心地よい家屋も通り過ぎてゆく。彼は何にもすがりつこうとしない。愛にすら、自分にすら。風に吹かれるままだ。そして彼は真っ黒な壁を抜け、姿を消す。顔はない。だからそれは私かもしれない。  とはいえ、昔の私は幸福を手にしていた。漠然とした記憶が残されている。温かな陽射しが注ぐ中、優しい眼差しで私を見つめる女は微笑を浮かべ、子供が三人、周囲で遊びまわっている。潮の匂いが混じる風は私の髪を揺らす。穏やかな波の音はあたりを包む。誰かが奪ってしまったのだろう。私を憎み蔑む、誰かが。あるいは、自分で捨て去ったのだろうか。今、この世界は平和そのものだ。何もかもが救済された表情で静止している。ここに留っていたい。私はそう心から望んでいる。 “これが愛の目指すところ” “壁を越えるために” “富麗で孤独 抜き差しならない”  多くを手に入れ、その殆どを綺麗に失って、でもまだ生き続けている。今まさに死に等しい地点、描く過去の光景は、混沌とした明晰夢で見る深い夢。  人と触れ合い、土地に根ざし、失望し感動しながら吸い込む空気は、新たな私を形成する。  想いを馳せよう。いつだって彼らは、呼吸を続けていた。 “とてつもないドイツ” “とんでもない日本”  日本には現実味がない。ドイツは不条理である。そこに私はいた。そして今、ここにいる。
/36ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加