雲外鏡

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雲外鏡

 その日神崎は、出張でいつも使うホテルではなく、老舗の宿にいた。たまには文豪気取りで宿泊したいという単純な動機もあるが、たまたま今日、急にラジオの生放送の仕事が舞い込み、運良く滑り込みで担当編集者の木戸が手配してくれたおかげで念願がかなった。    しかし順調が良いように見えて、最近、また執筆に行き詰まりを感じている。先日発表した『おさかべ』はそれこそ上々だったが、まだいまいち自分では納得できるものではなかった。  神崎竜也(かんざきりゅうや)は小説というものを執筆してもうじき十一年になる。それを生業にできたのは六年前。いきなり文芸の世界にあらわれた新星は、その道の主要な賞をかっさらっていった。  普段は、エンターテイメント作品を専門とし、現在は天才スリや嘘を見抜く名人、話のうまい人間や知識が豊富なグラマラスな美女という個性的な四人が世界を駆け巡って、秘宝を探すという『The fourシリーズ』に加え、半年前から妖怪が登場する小説も書いている。  『The fourシリーズ』は評判は良く、「緻密に練り上げられた構成」と、シリーズを書くたびに、前回を上回る良作と絶賛されている。最近、二作目まで映画化されて、書籍は現在第六シリーズまで出ている。  ファンタジーの要素はない。エンターテイメントの要素を取り入れながら、現実社会のあれこれを描いてこそ、真の人間というものが表現できると信じて疑わなかった。が、そこに一つの物足りなさを抱きつつあったのが、半年前。  作家仲間は、さまざまにチャレンジしていた。テレビ番組に出て畑違いのバラエティーで笑わせたり、YouTubeに出て、執筆とは関係のないこと――例えば、コーラのペットボトルに清涼菓子を入れて泡を吹き出させたり――をしたり。彼らに対して、自分には関係ないもの、別次元のことと考え、うらやましいとも思わなかった。ただ、よくやるなあ……と自分の性格では絶対に出来ないと知っているので、彼らには一種の尊敬に似た感動すら覚えていた。  しかし、そういってはいられない状況である。長らく続く出版業界の不振、発行部数の低下、さまざまなSNSを通しての作品発表。  友人と呑んだ帰りにふらっと寄ったブックオフで(はじめて行ったのだが)、『The fourシリーズ』の当時の最新作『メキシカン・ラプソディー』が発売から三ヶ月もたたずに、すでに並んでいて愕然としたことがあった。担当編集者の木戸からは「先生の新しい世界が見たいです」などと言われて辟易することもしばしばだったが、現実を目の当たりにして、その時は、これまでしてきた執筆の苦労や楽しみが一気に喪失し、膝から崩れ落ちた。  なので、木戸から提案された、「神崎先生って……妖怪とかご興味あります?」という恐る恐るたずねられた内容に、言葉使いが気に障ったが、忖度なしに「ああ、妖怪? いいねえ」と乗っかってしまった。それが半年前の出来事だ。  知識がまったくないところからはじめて、どうにか完成させたのだが。  そのときに、神崎は不思議な体験をしていた。  作品のタイトルが『ぬらりひょん』。あの、妖怪のぬらりひょんである。ぬらりひょんは、忙しい夕方などに現れて、知らないうちに勝手に家へあがりこんで茶をすすっているという。一方では、海坊主の類いだと言い、瓢箪鯰のような化け物だといわれている。ぬらりくらりとして要領を得ない妖怪。また妖怪の総大将であるという話もある。  神崎は幼いころに、テレビでしていた『ゲゲゲの鬼太郎』をみたことがある。さして興味もなく、もっぱら外遊びばかりだったのだが。その時の、水木しげる先生が描かれた『ぬらりひょん』の印象が強い。  時を経て、大人になり、様々な人生経験を積んで『ぬらりひょん』に向き合うと、子どもの頃に感じていた、妖しい存在、がこうもいろいろと変幻自在に表現されるものだと知って、その時は深い感銘を受けた。その時から文字通り、妖怪にとりつかれている。妖怪に魅了されていた。  その日、彼は妖怪に向き合うのがはじめてで『ぬらりひょん』に頭を抱えていた。と同時に、リビングのローテーブルからカタリと音がして、神崎はそちらを見た。  すると湯呑みがある。それほど興味を抱くことなく、神崎は執筆活動へ戻ろうとした。しかし。いやまてよと、考え直してみる。この家には茶の類いは存在しない。ミネラルウォーターしかない。彼は、もしかしたら自分が水を飲んだ後に湯呑みをそこへ置いていたのでは? 、熱中するあまり記憶があいまいになっているかもしれない――そう思って、作業を中断し、湯呑みを確認すると、茶葉が少しと、茶の茎二本が残されているのを見た。神崎は身震いし、とっさに誰もいないはずの部屋を見回し、謎の敵に対して構えるポーズをつくった。  しかし誰もいるはずがない。森閑としているだけ。彼ははっとした顔で、あたりをキョロキョロ見回す。かといって、家のなかをあちこち点検する勇気もなかった。  そのときは二本残った茶柱に、幸先がよさそうに思えたが。  あれは、ぬらりひょんの仕業だろうと、神崎は信じて疑わない。  たしかにそのあとすぐに、『妖怪かっこいーNE!』というインターネットテレビ連動のラジオ番組の依頼が舞い込んだ。普通ならば妖怪について博識のある人物を置くところを、知識が乏しい神崎がメインになり、知識が豊富なリスナーとのSNSをも活用した、リアルタイム番組だった。ハッシュタグは、♯妖かっけー。もしくは、♯妖いーNE!。(妖に、英語の呼びかけのYOの意味を持たせているらしい)  博学多識と思われていた見目麗しい彼のそのギャップで、女性リスナーをたちまちとりこにし、『リュウ萌え』という新たな言葉も生み出している。また、番組中に度々登場する決め台詞のような神崎の「わからんだろうが」という言葉と、その開き直りにも似た不甲斐ない感じが好かれて男性リスナーにも評判がよく、子どもも神崎監修の妖怪絵本を読むくらい人気だった。  ちなみに「わからんだろうが」は一躍有名な言葉となり、『妖怪かっこいーNE!』が始まって十五分後くらいには話題のワードで上位に上がるほどだ。彼が発すると、  わからんだろうがキターーーーwwww。  わかDキターーーー。が一瞬で並ぶのである。  一度、何を思ったのか、神崎が「わからんだろうが」を連呼した際は、大量の書き込みで負荷がかかり、某サーバーが落ちるほどで、バルス神崎と名付けられたりした。  今日は『雲外鏡』について。アイドル菜々美の不祥事で、数日前に急遽『妖怪かっこいーNE!』が組み込まれた。固定リスナーもできて、妖怪の神崎として定着しつつある。  『雲外鏡』とは、鏡に乗り移った付喪神であり、百年経った道具に宿るのが付喪神だ。  そして、いま、夜の九時を差す置き時計を前に難儀している。  夕立に降られ、濡れた身のまま先に風呂に入ったのが良くなかった。風呂からあがって、そのまま出された食事をとり、すっかり眠ってしまったのだ。先ほど夢にうなされて起きると、なんと秒針が逆回転しているのを見た。たしか、ここへ来たときは正常に動いていると思っていた。だがそもそも置き時計などなかった気もするのだが。そして、部屋の様子が来たときとなんだか違う。別の部屋へ通された錯覚に陥るが、日常の目まぐるしさで疲れ切っているのかもしれない。目覚めると、ここが家なのか宿泊先なのか混乱することがしばしばあった。今回もきっとそうだ。けれど。  この逆向きに進む時計は一体どういうことだ。現実の違和をまざまざと見せつけてくる。数字が配されているところは黒い点が打たれ、秒針だけでなく、長針も短針も逆に進んでいるのだ。それがわかったのが、寝苦しさで起きた一時間前の、この時計でいうところの十時だ。そこから逆回転していって、いまが九時を指している。まるで時計だけが時間を逆戻りしているように見えるが、現実的にはあり得ないことだ。  壊れていると考えて、放っておいても良かったが、いかんせん正確な時間がわからない。わざわざフロントに電話するほどでもない。さらにそれで、バルス神崎は夜中に時刻を訊ねてきた、などと万が一SNSにあげられてはかなわない。老舗の宿でそれはありえないだろうが、我慢した。  日々の慌ただしさを癒すために非日常空間を演出しているので、テレビがない。スマートフォンの充電が終われば、また時刻がわかるのだから放置しよう。その考えに至るも、逆回転する時計は奇妙極まりない。ただ、まてよ、と首をひねりたくもある。日常の空間からかけ離れた演出が売りなのだから、置き時計はこの部屋に似つかわしくないのでは? そこまで考えて戦慄が走り、危うく置き時計を落としかけた。薄気味悪ささえ覚える。なぜか背筋がぞっとして、気分を変えるために顔を洗おうと、神崎は置き時計を棚へひとまず戻し、洗面所へ向かった。鼻歌を奏でる余裕がまだあった。  さすがなるほど、年季の入ったたたずまいは燻されたようで、鏡の枠が一部朽ちて欠けそうだ。だが、鏡の輝きは当時と変わらないのだろう。いまのそれと同じ明瞭さだった。神崎は鏡の前に立ち、さっそく蛇口をひねろうと、手を伸ばす。おやっ、と思った。蛇口が硬くてかなわない。何度が細かく左右に動かして、ようやく緩んだところで、気が付いた。逆向きの回転だ。違和感を覚えながらも、まずは手を洗う。  だんだんと鼻歌が小さく、途切れ途切れになっていく。  鏡を正視し、先ほどには気づかなっかった違和感を目の当たりにする。普段通りではない顔つき、体つきで――全体に違う自分、別の誰かのように感じる。どこがどうおかしいのかと、鏡に顔を寄せる。だが、あれ――? 鏡に映るTシャツのロゴがそのままだった。Tシャツを引っ張って見る。左右反転。逆さ文字だ。昨日つけた指先のかすり傷も反対にできている。  混乱の渦に放り込まれ、わけがわからず茫然自失で立ち尽くしていた。  すべての辻褄を合わせようとして、考えを巡らす。逆回転の時計、逆向きの回転の蛇口、反転しているTシャツ、ズボン、指先の傷――それらが大波となって一気に打ち寄せてくる。「ああ‼」叫んでいた。神崎は時計をとりに戻り、また鏡の前で立つ。鏡の中の時計は正常な動きで、普段見る時計そのものだった。  つまり、三時。いまは夜の三時なのだ。  血の気がひいた。指まで震える。気づくと鏡を叩いていた。 「出してくれ!」  神崎は鏡の世界に閉じ込められていた。                          (了)
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