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ひどい話
その日は朝から最悪だった。
同棲中の彼女とは喧嘩するし、そのせいで大学には遅刻するし、学食では提出期限ギリギリのレポートにコーヒーをこぼされるし、そのレポートを作り直していたせいでバイトにも遅刻するし、やっと帰れると思ったらバイクのヘルメットは盗まれているし……とにかく、ツイていなかった。不幸の連鎖にしっかり両足をつかまれて、ずぶずぶと泥沼に引きずり込まれていくような感覚が、いつまでたってもまとわりついてる。
ひどい話だ。一体俺がなにをしたというのだろう。ちょっと若気の至りで彼女の友達と浮気をしたり、隣の席のヤツのレポートを無断で拝借してみたり、バイト先の女店長と不倫して、新車のバイクを買ってもらったりしているだけなのに。
ひどい話だ。ひどい男だと罵られるのにはもう慣れたが、それが一体なんだというのだ。自業自得だの因果応報だの、もう本当にバカバカしかった。
俺がひどい男だというだけでひどい仕打ちにあうというなら、なぜ正しく一途だった俺の父は、母親の不倫と借金のせいで首をくくるまでに至ったのか、わかるように説明して欲しい。
バイクで15分かかる距離を歩いて帰る気にもなれず、俺はヘルメットがないまま颯爽と風を切っていた。警察にさえ会わなければいい。半ば祈るようにそう思いながら、大通りを避けてなるべく裏道を走っていると、ふいに鼻先に雨粒が落ちる。
「……おいおい、マジかよ」
雨はあっという間に土砂降りになり、車道には地を這うように白い靄が立ち込めていた。視界は悪く、ヘルメットもしていない俺はたまらなくなって目についたコンビニの駐車場に向かってハンドルをきる。
けたたましいクラクションが、俺の背中を突き刺していた。
「クッソ! なんなんだよ今日は!!」
バイクを止めると、俺はコンビニの軒下に避難して濡れた前髪をかき上げていた。轟音を響かせて地に落ちる雨粒はまるで、八方を塞ぐ壁のように俺の前に立ちはだかってる。
「なんなんだよ、マジで……」
バカバカしい。ひどい話だ。膝を折ってうなだれていると、いよいよ泥沼は俺の胸の辺りまでもを飲み込んでしまったように思う。
ごくり生唾を飲み込むと、父の首に絡みついたベルトの色・質感・バックルの形がどうしてか鮮明に思い出された。
「はい」
雨は止まない。顔を上げると、夜の闇はますますその濃度を増しながら、白い靄を引き連れていた。
不愛想な顔の女子高生が、こちらに新品のビニール傘を差し出している。頼りなく揺れるタグの向こうで、彼女はぴくりとも笑わずにこちらを見ていた。
「これが最後の1本だって」
「君が買ったんだろ。ならそれは君のものだ」
「そうね。でもあなたに譲るわ。この世の終わりみたいな顔してるから」
「ご親切にどうも。でも俺、バイクだし、やっぱりそれは君のものだから」
「そう。じゃあ、こうしましょ?」
そう言うと、女子高生は傘を開いて、俺に立ち上がるように促した。
「家まで送るわ。バイクは押して歩いたらいい」
「紳士的だね。でも、こんな土砂降りの中、見ず知らずのずぶ濡れの男のために、君が遠回りしなきゃならない理由はないよ」
「この世の終わりだと思ってたから」
雨はますます、ますます降った。
叩きつけるようなその音は、腹の底に響くようで、白い靄は目を眩ませた。彼女は静かに、ひそやかに笑い、俺の手を取る。
「今日は朝から最悪だったわ」
「……わかるよ、俺もだ」
寄り添った俺たちの笑い声は、雨粒が残らずかき消していた。コンビニの白々しい明かりが2人の横顔を照らしていたけど、どうせ誰一人だって気にしちゃあいない。
ひどい話だ。
でもそれがいい。
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