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物書きは、かわうそにあらず
家に居るようになってから、NHKの「あさイチ」を観るのが常になっている。
日替わりの特集なので、自分に必要だと思う情報もあれば、そうでない時もある。
本日の特集は「コロナ禍の中のお葬式、看取りのあり方」だった。
今の私には、あまり関係が無いと思いつつも、家事をしながら見ていた。
そもそもお葬式をする意味は、故人を送る儀式ではあるが、残された人たちの心を整理する場でもある。
そして、参列した方々から、家族が知らなかった故人の人となりをうかがうことができる。外ではこの様に活動し、必要とされていた、生きていたとわかるのだ。
我が家の話を言えば、同居していた夫の父が、昨年亡くなった。
父は紳士服の仕立てをしていたが、家を建て替えた時に店舗部分を無くして廃業した。夫は、父が長年続けてきたことを取り上げた形になって、悪い事をしたと思っていたようだ。それを弔辞でも述べていた。
けれど父は仕立てをしなくなってからは、文化財発掘の仕事に行くようになった。人懐っこく、体を使うことをいとわない質だったので、現場では重用されていたようだ。仕事場の方が斎場に、大きく引き伸ばした父の写真を持ってきてくださった。お話もうかがった。父が生きていた証だった。
現在、コロナの状況下で家族葬ばかりになった。故人の外での様子を聞く大事な機会を逃してしまったと感じている方がたくさんいらっしゃる。
そして、「話す」機会も失っている。
人は、悲しむべき時に底の底まで行きついてしまった方が良いようだ。
その気持ちを人に「話す」。
人に話そうとする時、わかってもらおうと頭の中で物事を順序立てて整理する。話しているうちに、自分が見えていなかった心の内が見えてくることもある。
「話す」ことは、「放す、離す」ことだ。
そうして悲しみの底をポンとけり、浮上することができるとのことだ。
この「話す」作業は、物書きの「書く」作業と同じだと感じる。
私は何のために「書いて」いるのか、考えたことがある。
参加しているグループのトピックで、以前コメントした。
『何のために書くか。
私は混沌とした自分の中味をガバッとつかんできて、洗い、晒して、並べる作業をしているのだと思います。
それで自分がその時、こう思っていたのかと確認し、発見します』
「なつき」を書いた時、それはよく感じた。作中で夏生が「わかった」と述べている。実際には、中学生当時は何もわかっていなかった。いや、わかろうともしていなかった。何十年を経て、小説を書く作業をすることで、やっと俯瞰することができた。夏生の「わかった」は、現在の私が「わかった」ことなのだ。
先日、片づけをしていたら、当時の日記帳が出てきた。
その中に「なつき」の第1章に出てくる「頭痛初体験」の記述があった。
私は執筆する際に、日記を読み返したりはしなかった。あの頃の想いに引っ張られると思ったのだ。
けれど小説と、ほぼ同じようなことが書いてあった。
多感な時期に感じた事は、それほど深く心に刻まれていたということだろう。
私たち物書きは「考える」。
人が考えないようなことに着目し、かなりの時間をかけて「考える」。
自分の思うままに言葉を連ねても、筋が通らない。
かわうそが、獲物を石に並べるのと同じではいけない。
心の内をわかってもらおう、更に読者を意識するなら、考えに考えて伝わる文章になると思う。
それは、想像で生み出すファンタジーでも、作業自体は変わらない。
考え抜く間に、作者が発見することは大いにあると思うからだ。
そして、浮上している。
ぼーっとテレビを見ているように見えて、頭の中は人の何十倍も思考を重ねているのだ。
まあ、ホントにぼーっとしている時も、あるのだが。
たまに? しょっちゅう? そこんところは、えへへ、突っ込まないでたもれ。
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