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国語を勉強するのは?
新聞の購読料を払うと、毎月、小冊子をもらえる。その中で、有名な塾の講師の方が、素朴な疑問に答えるコラムがあった。
『国語を勉強するのは、何のため?』
小学校の時間割でも、国語の授業は毎日ある。けれど、そんな疑問を持ったことは無かった。
ああ、数学に関しては思っていた。
「何で、数学の勉強するん? こんな難しいこと、コンピュータに任せればいいやん。考え方が大事だとしても、私の人生において、数学が必要な仕事には就かんし」
国語に対して疑問を持たなかったのは、得意科目だったし毎日あっても苦ではなかったからか。
個人的な見解を抜きにしても、国語を学ぶのは、日本人として当たり前のことだと思ってきた。
文章を読んで理解できるのは、国語を学習したからだ。自分の感じたことを表現できるのも、さらには作品にできるのも、然りだ。
そういうことなのか? と、コラムの回答を読み進める。
(引用します)
『人は、自分一人で生きていくことができません。多くの人々と関わり合い、助け合いながら生きています。そうして他者と共に生きていくためには、互いの思っていること・考えていることを上手に伝え合うことが欠かせません。
話す、聞く、読む、書く。
国語で学ぶことは、コミュニケーションのための方法です。
他者によって書かれたものや、相手の話すことを正確に理解する力が無ければ、相手の望みに応えることはできません。自分の思い・考えを上手に表現することができなければ、相手にそれを理解してもらうことができません。
つまり、国語という科目は、自分と関わり合う人々と上手に付き合っていくためのものなのです。』
ふうむ。
国語の学習をそんな風に捉えたことがなかったので、目から鱗だった。
学ぶ立場にしてみれば意識してはいなかったけれど、教える立場の先生方からすれば、基本中の基本的な考え方なのだろう。
そもそも、言葉ができたのは、自分の感じたことを自分以外の人にわかってもらうためであり、自分以外の人が思っていることも理解しようと思ったからだ。そこは、わかる。
しかし、なのだ。ううむ。
確かに私は国語が得意だった。
けれど、コミュニケーション能力も長けていたか? 否だ。
話をすればしどろもどろだし、的外れなとんちんかんなことを言う。
よく考えないで発言して傷つけたり、相手が思ってないことまで想像して憂鬱になったりする。
人生経験を経ても尚、否だ。
これは資質の問題で、人と上手く付き合えることは、また別の次元の話なのだ。
まあでも曲がりなりにも、自分の思いの丈を表現することはできる。
モヤモヤと煙のように不確かな思いが、言葉にすることでくっきりとした輪郭を持つ。それができなければ、私はもっといびつな人間になっていただろう。
そして、思いを作品にして公開し、読んでもらえる。有難いことだ。
国語の学びは、私を他者とつなげる助けになっている。
それは間違いないのだと思う。
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