かぐわしきコーヒー・ルンバ

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かぐわしきコーヒー・ルンバ

 前章で、喫茶店についてぺコメをいただいたので、私も思い出して。  高校生の頃、叔父が喫茶店に連れて行ってくれた。  叔父といっても叔母のご主人で、当時は30過ぎの、気さくなお兄さんといった雰囲気だった。どういう経緯だったのか。その親せきの家に泊りがけで遊びに行ったことがあったので、帰りの電車の時間待ちだったかもしれない。  それまで私は喫茶店など、入ったことがなかった。  一杯のコーヒーにお金を払うより、文庫本一冊買った方がいいと思っていた。友だちもそういう考え方だった。  おまけに田舎者の父は、喫茶店は悪の巣窟だと信じて疑わない人間だった。悪い道にそれるのは、そういうところに出入りしているからだと言っていた。それはあまりに偏見だろうと思っていたが、ついぞそのドアを開ける勇気も余分なお金も無かった。  今まで、謎のベールに包まれていた『喫茶店』に、ついに入る。  期待よりも、なにがしかの罪悪感にさいなまれる。反発しながらも、自分で思うより私は、父の言葉に縛られていたのだとわかった。  家に帰っても、叔父に連れて行ってもらったことは、口にしてはいけない。言おうものなら、叔父が悪者にされてしまうと危惧した。  叔父の後について恐る恐る店に入ると、香ばしい匂いがした。  その喫茶店は、コーヒー専門店だった。  小さなテーブルを挟んで、席に着く。 「草子ちゃん、何飲む?」  メニューを渡されるが、何が何やらわからない。  今思えば、あれはコーヒーの産地の名前だったのだ。  一つ、私の頭の中に浮かんだ飲物があった。  コーヒーの上に、生クリームを浮かべたもの。  あれは何て言う飲物なんだろう。  メニューのカタカナをなぞっていく。『モカ』というのが、それらしく思えた。 「じゃあ、モカで」 「えー、草子ちゃん、コーヒーの味とかわかるんや。すごいな」  叔父も自分の飲みたいものを注文する。  ほどなくして、席に運ばれてきた。  トレーの上に載っている一方のカップには、白い生クリームが立ち上がっている。ああ、私の思っていたコーヒーに間違いはなかったのだと、安心する。  お店の人が尋ねる。 「モカの方は?」  私は勢いよく「はい!」と手をあげる。すると、私の前に置かれたのは、クリームが載っていない方のカップだった。  え?!  そしてクリームのカップは、叔父の前に。 「僕なんか、コーヒーの違いがわからんから、ウインナコーヒーや」  私があまりに困惑した顔をしていたのか。それとも、物欲しそうだったのか。 「草子ちゃん、飲んでみる?」  実は知ったかぶりしていた、と打ち明けると「何や、言ってくれればいいのに」と、笑って交換してくれた。  若き日の出来事だ。  ちなみに「昔、アラブの偉いお坊さんが」で始まる『コーヒー・ルンバ』の歌に、私が間違えたコーヒー「モカ・マタリ」が出てくる。  酸味の強い、フルーティな香りのコーヒーとのことだ。  まあ今になっても尚、コーヒーの違いはよくわからないのだが。  あのかぐわしい香りには、うっとりとする。
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