すきとおった ほんとうのたべもの

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すきとおった ほんとうのたべもの

 私は、よく道草をしている。  空の雲を真剣に眺めたり、花びらから滴る、雨の名残りが光る様子を見つめていたりする。  パラパラと中の文章を読んでいたら、その人が小学生の時に読んで感動したという文が出ていた。  宮澤賢治の作品集に出ている、「序」の言葉だ。 「わたくしたちは、きれいにすきとおった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます」  賢治は、目にするものが、きれいに見えるという。  それをそのとおりに、書いたまでだという。  私は、そんな文が書いてあったのかと、図書室の賢治の本を片っ端から開いてみた。  私はこれまで、宮澤賢治に惹かれながらも、わけがわからないと感じていた。  ジョバンニって何よ。  クラムボンはカプカプわらった、ですって。  これを素敵と思えないのは、案外、私は頭が固いのかと思っていた。  やっと、その文をみつけた。 「なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしもまた、わけがわからないのです」  え? わからないままで良かったの?  わかろうとしていたから、わからなかった。  私は肩の力が抜けた。 「けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおった ほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません」  今から100年ほど前に、私と似たような感じ方をする人がいた。  私はようやく、共感できた思いがした。  そして、読んだものが、心の栄養になることを賢治も知っていたのだ。  うつくしいものを美しいと感じる。  一見、そうでないと思うもの、みんなが見過ごしてしまうようなところも、美しいと感じる。  その感受性をこれからも持ち続けていたいと思う。  
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