キャンパス

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美和(みわ)が大学のキャンパスに戻ってきたのは午後3時少し前だった。 早めに授業を切り上げた学生のカップルたちとすれ違う。 『今のうちに大学生活を楽しんでおきなさいよ』 4年生の美和は先輩気取りでそんなことを心でつぶやきながら初々しい名も知らぬ後輩たちの横を駆けていく。 イチョウの実を拾う近所の住人たちの姿を見て、またこの季節が巡ってきたのだと実感する。 イチョウの葉を踏みつけて転びそうになりながら長い並木道を美和は急ぐ。 朝晩の冷え込みに備えたヨットパーカーも今の美和には無用(むよう)長物(ちょうぶつ)でしかない。 『まったくこのキャンパスは広すぎる』 中学の頃には高校の私学の制服に憧れたように、緑豊かな広々としたキャンパスにかつて憧れを抱いていた自身のことを美和は遠い記憶の中に置いてきてしまったようだ。 落葉樹に囲まれた理学部の研究棟に着くと、エレベーターに見向きもせず階段を登り始める。 『まったくエレベーターが1台ってどういうことよ』 朝や昼のエレベーターにもうここの学生たちは誰も期待をしていない。 ただこの午後3時前の時間帯なら利用者も随分と少なくなっているが、より確実な手段を美和は選んだのである。 4階にたどり着くと直属の教授が黄色い紙袋を片手にふらふらと廊下を歩いてくる。 「今日の『おやつゼミ』は長崎のカステラだぞ」 教授は腕の時計を見ながら美和をからかうように言った。 「は、はい。ありがとうございます」 半年前に研究室に配属してきた頃は、声を掛けると直立不動だった美和がすっかり馴染んできている様子に教授も微笑みを見せる。 美和は自分の居室に戻り、リュックサックを机に放り投げ、筆記用具を(つか)んで、また居室を出た。 階段を上がった5階の会議室に入った時、ちょうど壁の時計が午後3時を刻んだ。 「良かった!」 同級生の梨花(りか)がなんとか時間までに戻ってこれた美和の心の声を代弁してくれた。 「さあ、始めようか」 博士課程の木下(きのした)が薄い眼鏡枠を中指で軽く押さながら号令を掛ける。 その横で白髪の教授はお土産で買ってきたカステラの包み紙をガサゴソと開け始めている。 「さて、今日は修士過程の山本(やまもと)くん、村松(むらまつ)さん、それに博士課程の東出(ひがしで)くんの研究の進捗(しんちょく)報告だね」 研究室では一番下の美和たち4年生にとって、教授よりも木下など博士課程の学生に威厳を感じている。 博士課程に進むには4年生で卒業論文が認められ、さらに修士課程での論文審査を経なければならない。 もっとも教授は博士課程の学生とは比べ物にならない経験を積んでいることは頭では理解していても、美和たちにとってはあまりに遠い存在で孫が祖父を見る感覚に似てしまうようだ。 この日の座長を務めている木下が連絡事項を伝えた後、研究の進捗報告を修士課程の山本に求めた。 薄汚れた白衣を着た山本がホワイトボードの前に立ち、実験で得られたデータの説明をし始める。 週に一度の『おやつゼミ』と名付けられたこの会議は午後3時から行われ、研究室の全員が出席する。 博士課程2名、修士課程5名、4年生8名の総勢15名の学生たちが各自の研究の進捗状況を報告するとともに教授陣や同僚からのアドバイスを得る機会となっている。 先程から続けられている山本の報告を美和はもっともらしい表情で聞いているが、内容についてはほとんど理解ができていない。 美和が落ちこぼれというわけではなく、ほとんどの4年生は容易には理解はできないのである。 講義や試験に出てきた専門用語が当然のように連発されるだけでなく、そもそも科学の研究という本質が経験の中から理解できていなければ、他人の研究報告を聞いてもなかなか容易には理解できはしない、そういうものらしい。 それでも美和たち4年生は先輩たちから発せられる専門用語の中から知っている知識を頭の中で組み合わせようと懸命に目と耳を傾ける。 山本の報告の途中で先輩たちが山本の示した図を指し示しながら質問をする。 「そこの部位にはそもそもアタックが難しいんじゃないかな、周りにバルキーなものがありすぎて反応が阻害されてしまうんじゃないのかな」 アタックは攻撃、バルキーは嵩高(かさだか)いという語を美和も知っているが、同僚たちが指摘する点をぼんやりとしか理解はできない。 こうして学生一人当たり10分程度で毎回3名の研究の進捗報告と質疑応答が行われ、指摘を受けて今後の方向性を各自で決めて研究を進めていくことになる。 秋が終わる頃には美和たち4年生も研究の進捗報告を行うことになるが、今はまだ先輩たちの報告を聞くだけで少しは気楽に出席することができている。 教授は3人の研究報告と質疑応答が収束するのを待ち構えていたように、秘書室に紅茶の準備を依頼するために会議室を出ていった。 美和たちには穏やかそうに感じる教授が退室すると、木下や山本ら先輩たちが一瞬、安堵の表情を浮かべる。 そんなことが美和たちは少し不思議で、どこかおかしく感じた。 秘書を伴って紅茶の一式が載ったトレイを抱えて教授が会議室に戻ってくる。 「今日は長崎のカステラですよ」 美和や梨花たちにとって週に一度の待ちかねた時間である。 4年生たちは教授からトレイを受け取り、()れたての紅茶を配る。 「学会はいかがでしたか?」 博士課程の木下が切り分けられたカステラを爪楊枝で持ち上げながら教授に尋ねた。 「長崎はいつ行っても良いところでしたよ、天気も良くてね、料理も美味しいですからね」 学会の内容について知りたかった一同は、いつもの教授の調子に苦笑いを浮かべる。 「ところで今年の秋合宿の幹事は誰でしたっけ?」 教授の一言に先程、研究報告を済ませた修士課程の山本がカステラでいっぱいの口をおさえながら「ボクです」と軽く手を挙げて答えた。 合宿とは名ばかりで、親睦と休養を目的に車で2時間ほどの場所にある大学付属の施設に一泊二日で出掛ける研究室の恒例行事のひとつである。 「長崎の学会でお会いした先生や企業の方も何名か参加されるので、山本くん、調整をお願いしますね」 海沿いの施設で行われる秋合宿では、午前中のセミナーが終われば午後は釣りをする学生や日頃の疲れを心地良い海風に(さら)しながら爆睡(ばくすい)する学生も多い。 夕方になると宴会が始まり、旅先という開放感も手伝って毎年盛り上がるようだった。 4年生の美和や梨花は今から楽しみで仕方ない。 「去年の秋合宿では山本さんが海に落ちたって聞きましたけど、本当ですか?」 梨花は山本の顔を覗き込み、周りの木下や東出ら先輩学生たちが顔を見合わせて思い出し笑いをし始める。 「あれは、ちょっと珍しい魚を捕まえようとして…」 秋山が去年の秋合宿での出来事を話し、木下らがからかい半分の相槌を入れる。 研究の進捗報告の緊張から開放された学生たちは、紅茶を飲みながら談笑するこの『おやつゼミ』という時間を誰もが楽しみにしているようだった。 「さあ、みんな実験に戻ろうか」 木下の声で美和が壁の時計を見ると午後4時を少し過ぎ、窓の外の広い空はゆっくりと夜に向かう準備を始めていた。
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