お揃いの秋

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お揃いの秋

某川のほとり、さらさらと穏やかな水流を聞きながら、春佳はぱちんと日傘を畳んでしまった。気持ちのよい秋晴れ。植わる木々はちらほらと色づいて、赤や黄の木漏れ日を落としている。やわらかく流れた風にそよいで、ひらりひらりと木陰の斑模様も揺らいだ。おさげの先に結んだリボンが足運びに合わせて跳ねるのさえ、少女の目には楽しげに映る。 それもそのはず、春佳は今日、観劇に行く誘いを受けていた。 通う学校は遠く神戸。奇しくもそこへ通っていた白川侯爵家のご令嬢に、貧窮しかけた一家の危機を救っていただいた以来、二人は真の友情で結ばれていた。 ご令嬢の名は一花さん、父はご次男の晴己氏。東京の、他にも名家のお邸が建つ閑静な台地に、白川次男のお邸もあった。 見慣れた背の高い塀を北に沿って進む。胸を突くほどの急勾配が、一歩ごとに期待を増すようでこんなにも楽しい。邸に植えられた楢の、黄色に染まった木立を見上げ、背景の真っ青な空にさえ胸を高鳴らせた。もう幼くはないから、弟のように坂に転がった団栗を拾いはしないけれど、ちょっと拾って見せてあげようかしらなどと思うくらいには、浮き足立っていた。 表通りに出る少し手前の木陰で、あわせを整え、裾を払う。陰から抜け出たとたん、がらがらがらと俥が通りすぎた。ちょんと揃えられた手元の、紫匂う銘仙の袂が瞼に焼き付いて、油断ならないと背筋を伸ばす。少し向こうで、重たげな門の開く音がしていた。 白川別邸の門番は気のいいおじさんで、春佳が顔を出すと、ちょいと帽子をあげてみせる。通用門を開けて中へ入れてもらいながら、天気の話をして、主人や主人の娘の話をして、おっといけない、おしゃべりしすぎたとお別れするのがお決まりだった。 「今日はオペラでしょう」 「ええ、そうなんです。私、とっても楽しみで、母に友禅を下ろしていただいて」 「なるほど、いつもお美しいが、今日はひとしおだねぇ」 上手を言うおじさんにはにかみつつ、手を振る。追いかけるように声が届いて、少女は友の様子を知る。 「お嬢様も、とっても楽しみにしていたよ」 それはきっと、団栗さえ拾いたくなる、春佳と同じ気持ち。頬が薔薇に染まる。 邸のエントランスには門番の息子である家令が控えていて、大きなドアを開けてもらう。お礼を言葉にすると、やわらかく微笑んで、中へと促された。 「あら、いらっしゃい。ごきげんよう、春佳さん」 「本日はお招きいただいて、ありがとうございます」 品のいい三つ揃いに、踵を揃え、真っ直ぐに立つ姿は一見、軍人のようでさえある。しかし、米国へ留学するなど、学識が高く、今は某財閥で役員を務めているらしかった。 春佳は白川家でなく、白川晴己氏から、学資の支援を受けていた。また、春佳の父が会社を失敗し、国外へ出稼ぎに出ねばならぬところを、勤め先を融通することで救ったのも彼個人の人脈からだった。 大恩ある尊い方ではあるが、過剰に敬われることを好まず、また、自身の身分でさえ煩わしそうにするのを知っていたので、少女はあくまで、大切な友人の父上として接すると決めていた。 「あの」 無礼にならぬ程度に辺りを見回してから、晴己氏に視線を戻す。 「一花さんは……?」 すると、氏には苦々しく笑われ、周囲にいた使用人たちは内緒話をするように顔を見合わせた。何か、いけないことを言ってしまったかしら。心配になっていると、彼らを諌めてから、首を振られる。 「貴女ではなく、うちの娘が相変わらず奔放だと話さ」 ときどき、こういう風だ。謎めいて、相手に疑問ばかり与える。しかし、知られたくないことについては首を傾げさせもしないので、そのうち明らかになるのだろうと頷いておいた。 「お茶でもして待っていようか」 踵を返す氏に、そそと寄ってきた女中が頭を垂れた。 「失礼いたします、こちらでしょうか」 侍女が捧げ持つように差し出される洋傘を、あら、と注視した。取り違えているんじゃないかしら、と驚いていると、紳士は何でもないように受け取ってしまったので、春佳はすっかり礼儀を忘れてしまって、目を丸く見開いた。 「どうかしたかい?」 「あ、いえ……」 主人の持っていた蝙蝠と取り替えて、女中は下がっていく。 黒尽くめに一点、鮮やかな深紅の洋傘。何とも派手な装いだが、不思議と、おかしく感じられることはない。むしろ、常識にとらわれない性格によく似合っていた。 呆れて、短くため息をつくのは徳子だ。 「お茶をご用意いたします」 「頼むよ」 応接間へ案内されて、重厚な布張りの椅子を引かれる。外から見れば、白川一花のお手繋ぎ、または白川晴己に支援されている立場であるが、あくまで、春佳は一花、そして晴己の大切な客人としてもてなされた。徳子は恐らく、一花の姉程度に思っている。 「いい傘だろう」 本音を言えば、爵位を賜るお屋敷で、紅茶を注がれることも緊張する。もてなす練習に、ポットに触れることはあっても、半ば仕える立場の癖に、春佳は裏へ入らせてもらったことがなかった。 「はい。とても綺麗な赤色です」 「ふふ、布から選んで、作らせたからね」 舶来趣味かと思えば、必要に駆られぬ限り洋服を着せない。形に西洋を取り入れても、色合いまでをそうする気はないようだった。傘も、目に眩いまでのそれでなく、重厚な深い赤。 和洋折衷が上手いのか、西洋建築ながら、場違いな気がせず、使用人たちの和服が似合うのも、晴己の洋服が似合うのもそのせいだろう。大抵の家具、調度品は晴己の選んだものだと聞いたから、趣味がいいのだ。 「彼女が小さいときに」 今も小さいけれど。晴己は笑う。 「僕が傘を差すと怖がるんだ、どうしてだと思う?」 足にしがみついてね、でも決して、顔を上げないんだよ。 「暗いところで、黒い傘を差すだろう。そしたら、暗がりからこっちを見るおばけのようだとね、怯えるんだ」 「それで、お作りなさったのですか」 「雨の度に怖い思いをさせるのは、可哀想だから」 もうさすがに、幼くもないし、多少背も伸びたことがあって、怯えることはないが、以来、礼儀のために蝙蝠は一本あるだけ。深い赤色の二本と、真っ白な日傘が一本と、物持ちらしく、複数所有している。 まぁ、と晴己の優しい心に頬を染める。穏やかに笑いあっているところへ、件の人が、秋らしく黄に染められた袂を匂わせて飛び込んできた。 「おはようございます。お待たせしてごめんなさい」 「おいで。家を出る前に、お茶にしよう」 「はい」 晴己が席をたつ。隣の椅子を引いて、一花を座らせた。 「何のお話をしていたの?」 「傘のお話だよ」 「一花さん、蝙蝠はまだお嫌い?」 すると、みるみる内に熟れていく頬。口を尖らせて隣を見上げるが、晴己はただ笑っている。 「そんな、そんな小さいときの……っ」 「小さい子の、可愛らしいエピソードね」 「わ、私、しっかり覚えているのよ、恥ずかしいわ!」 大袈裟に顔を覆って嘆く子を、女中が微笑ましく思いながら給仕する。並んだ茶菓子に小さなため息ひとつ。機嫌を持ち直して、口をつけ始めた。 やがて、上げ下げされるカップが落ち着いた頃。ようやく一花の友人は、彼女が鶸色に染まる地に、秋津が飛ぶことに気がついた。 気づいたことを察してか、良家の子女ははにかみながも、どこか得意そうに微笑む。 「あの、偶然踊り場から春佳さんのいらっしゃるのが見えたから、大急ぎで探したの」 お揃い。春佳ははっとする。団栗を拾ってみせてあげればよかったかしら。 「せっかくのお出かけですものね」 すると、ちょうど、本日の引率者が腰を上げた。 「そろそろ行こうか」 そぞろ出ていく三人の、一花に手渡されたのは白い日傘。 茜地に影法師の蜻蛉が飛ぶ春佳と二人並べば、色づいた葉をあちらこちらと遊ぶ蜻蛉の仲睦まじき。
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