遠雷

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遠雷

たと、たと……たと。 靴底は夢見心地に床を踏みしめる。まろく、やわらかな靴音は浮つく気持ちそのままに、しかし、忙しなく、かれこれ四半時、鳴り続けていた。 「晴己様」 た、と。 いかめしい、はっきりとした声にも、足は未だ心ここにあらず。微睡むように口を開けば、やはり、ぼんやりとした返答しか出てこない。 「ぅん?」 だが、相手は調子を崩さず、語気を強めてこう言う。 「少しは落ち着きなさいませ」 男は唸って、口をもごもごさせた。 「腹を空かせた熊のように、右へ左へうろうろと……。白川家の御次男とあろう殿方が、みっともありません」 「徳さん、だって……」 「だって、ではございません。動いたところで時の進みは同じなのですから、せめてじっとお待ちなされてはどうですか」 皆の気まで落ち着かないでしょう。 うぅ、とまたも男の喉が鳴る。張った顎を所在なげに撫で回しながら、そうだけど、と子供のような言い訳を呟いた。 富国強兵を掲げる御国に倣い、幼い頃から数々の武芸を嗜んできた晴己は、中でも剣道に秀で、次男坊の多少気楽な立場もあり、大学へ上がってからも、長らく続けていた。士官学校へ出稽古に行くなど熱心に取り組み、遠ざかった今でもおよそ華族然としない肩の厚み、逞しい脚をしている。それを寸分狂いなく仕立てあげた品のよいスーツに納めると、高貴な血統の面影を持ちながらも、どこか艶を含む容貌が際立ち、家内では悪目立ちすると謗られていた。 白川家次男と云えば、色男で世に名を馳せる。本人、そうと意識しているわけではないようだが、御令嬢方の視線に応え、ふと目を細めることさえ色っぽく映るようで、あるかなきか怪しい噂の流れることは数知れず。恵まれた体格のくせ、御国のために働くことのできないのは、そういうところにも一端があった。 家名を汚すなとは父の口癖だが、それに頓着しない性格も相俟って、およそ言う通りにしたことがない。御正室からも疎まれ、お陰で大学を辞してから一人、別邸を渡されている。乳母は酷く憐れんで、単身、当主に直訴さえしたようだが覆らず、晴己の品行を叱りつけながら、命あるかぎり、躾を怠らぬと宣言してついてきた。二十を過ぎてその調子なものだから、僕はいつまでも子供でないよ、と嗜めるも、子供でなかったら何であろうか、自らの行い、今ここで省みよと高らかに反駁され、ぐっと言葉を詰まらせるしかなかった。 所有はともかく、実際に暮らす屋敷の主が何もせず、エントランスでうろうろされると、使用人たちはたまったものでない。大きな図体が右往左往すると嫌でも目に付くから、おちおち奥に引っ込んでもいられなかった。徳子の言うことはもっともで、常なら晴己も同意するところだが、しかし、彼は今、待ちわびている。 がらがらがら。 はっと目を見開く。遠く、しかもだんだんと近づいてくるけたたましい音に、熊はようやく玄関を飛び出した。 俥はちょうど、門をくぐったところ。主人に従って侍従たちも外へ出る。身を切るような風の吹く中、ある女中は水仕事の後でなくてよかったと、安堵の息を吐いた。 乗る人は、そぞろ出てきた人影に気づいて身を乗り出す。すぐさま同乗する御付が裾を掴んで、息をのんだ徳子がほっと胸を撫で下ろした。 冴えた大気に、車輪の土を噛んで響く。その中に、微か、あまやかな声が入り混じり、晴己は大きく手を上げる。すると、はしゃいだ子供がまた立ち上がりかけて、今度こそは上から押さえこまれていた。 やがて、横付けされた俥から、落ち着く間もなく両腕を伸ばす。寒かろうと着せるように言った毛皮で丸々と着ぶくれした姿は、ほとんど小熊のようだった。 「お帰り、一花」 転げ落ちそうな体をすくいあげれば、短い手で親熊に抱きつく。 「ただいま帰りましたぁ」 「これ、動きにくいです」 ありがたい叱言をいただくこと、一しきり。頬を膨らませ、よたよたと心もとない足取りを、娘は久方ぶりの自室へと向けていた。抱えていってやろうかと膝をつくが、彼女はますます唇を尖らせて通りすぎる。 「だから、島野に持たせたろう」 「駅で、俥に乗れなかったんです」 いつものことだろうと思う。しかし、決して口に出してはいけない。未だいとけないが、今よりももっといとけないとき、乳を飲めない為の発育不良で、年相応に大きくなれないことは、彼女の小さな胸を大いに痛める問題なのだった。 「乗せてくれたろ?」 ふと、足を止める。思い出しているのだろう、寒さで赤らんでいた顔をさらに赤くして、口をつぐんだ。 頑な様子に苦笑して、控えていた島野が口を開く。 「ご立派な毛皮なものですから、私がお身体を上手く掴めませんで、見かねた俥夫に押し上げてもらったんですよ」 「それは……」 酷く、屈辱的な。 暖かいが分厚く、着ぶくれすると分かっていたので、学校へは送らず、迎えに持たせたのだが、それでもまだ、いけなかったらしい。おとなしく、ウールのコートで手を打つべきだったろうか。しかし、駅から家までは、少しく遠い。 「一花」 小さな子のために膝をつく。 うっすらと涙さえ浮かべる目を、前髪の隙間から目を合わせると、袖の陰に隠れた紅葉を握った。 「一昨日は雪が降るくらい、こちらは寒かったんだ。一花が寒くないようにって思ったんだけど」 少女は微かに顎を引く。 「今度は、俥に乗せた後に着せるよう、島野によく言っておくから」 ふんふん、と小熊の後ろで御付がうなずく。駅で会ったらすぐ着せるようにと、重々言い含めたのは主人その人であると思いながら、当人に代わって、些細な責の肩代わりをするのもまた、お仕えする身の仕事の一つ。それくらい、お安いご用というものである。 しかし、鈴の声音はまだ、不機嫌な気色を消さない。 「自分で乗れます」 よほど、根深かったらしい。 聞けば、ミッションで小雀さんという、本人にとっては大変不名誉な渾名をつけられてしまったらしい。上級の方々に呼ばれては返事しないわけにもいかず、そして、上級の方々に返事するなら、同級生にも認めないわけにいかない。大きな不満を秘めながら、小雀はいつか、立派な雀になってみせると密かに心に誓っていた。 雀もまた、小鳥の部類であると、教えようか悩んだのは言うまでもない。 ともかく、そういう理由もあり、発育の遅れは周囲が思うよりもよほど重大な悩みとなっていたので、俥に乗れなかったことは晴己の言い訳にも応ぜぬほど、か弱い胸に傷を残したらしかった。 寒かろうと暑かろうと、一花は何でも、自分でできるようになりたいのだった。そうして、周囲にそれを当たり前だと思ってほしい。 立派な淑女にならねばならぬと、日頃から徳子に言い聞かされて育ち、きっと、何でも一人前にできることだと思っている子供は、これ以上手の付けられない事物を増やすわけにいかなかった。 だから、このコートは気に入らない。 微動だにしない娘を前に、人知れずため息をつく。 「帰りはきっと、ウールの外套にするから、それで許してくれないかい」 結局、晴己が折れるしかないのである。着ぶくれて丸々とした姿も、ふくら雀のように愛らしいとは、間違っても顔にさえ出してはならない。脱ぎ捨てられないだけ良しとしなければ。毛皮はもうすっかり、一花の敵である。 分厚い袖の向こうから、真っ白な指先が持ち上がる。よいしょ、と抱き上げれば、少女は首筋に顔を埋め、やくそくね、と囁いた。 「約束。ちゃぁんと、守るから」 こくりこくりとうなずく気配がする。これにてようやく一件落着。彼女の部屋へ向かって、子供を抱えたまま、歩き始めた。 ふふ、と、微かな笑みが耳朶をくすぐった。 齢十二になる一花は、戸籍上、辛うじて白川の家に名を連ねる、いわゆる庶子だった。公には、放蕩を尽くした末に産ませた子であるよう、認知されており、晴己もそれを否定しない。間違いなく立つであろう醜聞を、兄も、当主でさえ黙りを決め込んでいた。条件に、これまで散々拒んできた会社役員を引き受けると言われたこともあるが、平生、血の繋がらない母に疎まれ、割りを食う息子を、哀れむ気がなかったともいえなかった。 書斎で一人、身を椅子に埋め、気の向かないまま書簡を弄ぶ。深閑とした部屋に、かさかさと便箋の擦れる音だけが響いていた。 爵位を持つ者としては狭いが、家人が二人だけとあっては広く、また、そのうちの一人が子供であれば、居ない日々の静けさには耐えがたいものがあった。 淡い光の差し込む窓の向こうは、風が重く鳴り響く。何かと寂しい季節ではあるが、どうにか白川別邸では、賑々しく年を越せそうだった。 こんこん、と扉を叩く音がする。徳子が盆を抱えて入って来、茶の芳しい香りとともに、色とりどりの落雁を並べた。そうして、給仕をしながら、老女は出し抜けに口を開く。 「いかがなさるのですか」 急須から注がれる鶯色が、白く湯気を立ち上らせた。 「何かしら用事を作られて、無理に訪ねてこられれば、余程困ったことになります」 静かに意見する徳子に目を向けもせず、ただ、晴己は眉間に渓谷を刻む。 娘の冬期休業に合わせ、縁談が持ち込まれていた。なるたけ、人目に触れぬよう育ててきたのに、どこで面が割れたのか。やはり、今夏、本邸で開かれた蛍見の会だろうか。夏に帰ってきた、久しく会っていなかった子に、晴己だけでなく徳子さえ、浮き足立ってしまったのだ。いいなぁ、と指を咥えた一花に、一緒に行こうと男は言い、女史まで、そうしなさいとうなずいたのである。うんと地味な着物を着せ、頭も、常なら趣向を凝らしてするところを、ただの束髪にして出掛けたにも拘わらずの結果だ。 地味に作ってさえ、華奢な肩や細い首が繊細な人形のようで、晴己の陰に潜るようにしてついて回る様などは、胸が苦しくなるほどいじらしい。出来るだけ目立たぬよう、端にいたつもりが、挨拶に来られるとつい愛想よくしてしまって、それもまた、良くなかった。 こめかみが痛む。渋面をますます濃くしながら、口を開いた。 「来られたらもう、会わせるか、仮病でも使えば会わずに済むだろう」 「先延ばしにして、何になります」 「だって、」 抓んだ落雁に重なるのは、砂糖菓子を幸せそうに頬張る幼い姿。背丈も未だ、御付にさえ追いつく気配なく、些細なことに気を揉んで不機嫌になる様など、少女と称するにも早すぎる。 「まだ、あんなに小さいのに……」 しかし、徳子はにべもない。 「白川の御家ともなりますれば、さして不思議なことでもありますまい」 いかがなさいますか。 男は顔をゆがめ、ずぶずぶと椅子に沈み込む。 黒檀の机に放り出された親書、裏返されたその封筒には古嶋との名字がある。 「どうしよう」 甘い千鳥をじっと見つめたところで、解を囀ずるわけでもなかった。仕方なしに、口へ放り込めば、じんわりと溶けだし、和三盆のやわらかな甘みが口に広がる。 古嶋は、華族令によりその地位を定められた新華族で、男爵の位を賜っていた。長男は既に婚約者がいる。申し出は三男についてのもので、ゆくゆくは分家させるつもりなのか、どこか、こちらの財産をたのみにしている風があった。 身内の、ましてや未だ白川本家に籍を置く晴己、一花の結婚に際して、本来、大いに当主の意見が物を言う。しかし、白川の当主、彼の父は、次男の小姫に我関せずの態度を貫いていた。 つまり、一花を嫁がせるかどうか。それは晴己の返事ひとつである。 「お断りなされてはどうですか」 優柔な様子に、乳母は憮然と言い放つ。 干菓子を溶かしながら、彼はますます眉間に皺を寄せた。 この家から出すことが順当で、また、彼女の将来を思えば、その安泰ともなると理解している。どこの馬の骨とも分からない娘に申し出のあること自体、有り難く、喜んで受けるべきであることも。断る理由は、ない。 いつか、手放さねばならぬか。来たるべき先を思えば、鮮やかに浮かぶ、花。ただいまと喜ぶ、少女の笑顔。 「ますます、綺麗になって……」 両手で顔を覆う。塞ぐ喉から喘ぐように、晴己は言った。 本人はしきりに背の大きさを悩んでいるが、女人であるから、大きな問題とはならない。結婚に於いて問題となるのは、血筋と器量である。血筋でさえ、由緒正しき家を継ぐとならねば、そう気にしない風も近頃はあった。 一花は、日本の趣を残しつつも、抜けるような白い肌を持ち、幾らか薄い色の瞳をしていた。黒い髪は真っ直ぐに首筋を流れ、唇は薔薇を含んだように赤い。ふっくらとした頬の、恥ずかしげに灯るには、もはや、言葉もなく見つめることしかできなかった。 伏せた面を上げることなどできない。美しいと遠ざけた女児は、日を追う毎にますます美しいのである。 「これじゃあ、寄宿舎に入れた意味がない」 泣いて嫌がる娘を説き伏せてまで東京の外へ出したのは、距離を置けば、多少なりとも冷静を取り戻せると目論んだからだ。しかし、実際はどうだ。離れれば離れるほど浮き足立ち、帰る日には居ても立ってもいられなくて、娘の好む菓子や、小物や、本や、着物を、山と用意して待つ始末。 押し隠すこともままならない。見て見ぬ振りをしながら、指折り数えて今日を待ち焦がれていたのだった。 徳子はそれ以上、詰め寄ることはしなかった。 「お断りとお詫びの書状を認めくださいませ」 「……そうするよ」 ため息をつこうとすれば、鋭い視線が飛んでくる。半ばで飲み込んで、傍の引き出しから巻紙を取り出した。 ふさわしいものはどれか吟味していると、扉口からこつこつ、軽やかな訪いが鳴った。 「どうぞ」 いとも容易く、頬は緩む。ドアノブが静かに回り、僅かに隙間を開けて、お下げのあとを残したまま、くつろいだ様子の小さな頭が、奥にいる主人に伺いをたてた。 「お父様」 花唇の紡ぐ声は期待に満ち溢れている。 「おいで」 許しを与えれば、一花は小走りに彼へ駆け寄った。 葡萄色の袖がはっと翻り、丸く膨らんだ帯が軽やかに上擦る。求められるまま抱き上げれば、袂に赤い椿が可愛らしく、雪輪を背にして咲いていた。 少し大人びて戻ってくるだろうかと、想いながら見立てた紬は確かで、夏よりもすっきりした頬によく似合っていた。 「気に入ったかい?」 問いかけに、娘は一も二もなくうなずく。しかしすぐに、ほんの少し眉を顰めてみせた。 「少し、大きいですが」 「そんなことない。奥ゆかしい、お姫さまみたいだ」 すると、音もなく指先を仕舞い込み、口元を隠す。そしてまた娘は、ふふ、と声を転がした。つい先ほど、耳元で囀った声と重なる。いつの間に、こんな笑い方を覚えたのだろう。薄い小さな花弁が、そよ風に遊ぶような。清らかで、柔らかく、耳朶を羽でくすぐる軽やかな声音を、昨春は知らなかったはずなのに。 甘えて、頬を合わせる娘をそのままに、久方の邂逅を味わう。 どうしても、同輩より小さな体、細い四肢。明らかに子供の姿をした彼女に、一度見えただけで相手を決めるなど、非情にも程があって、できようはずもない。 「晴己様、まだお仕事が残っておいでです。一花様、お邪魔をしてはなりません、お膝から降りられますよう」 ぴたり、しなやかな背筋が反り返る。ふっと徳子へ目を向ければ、わずかに唇を尖らせて、猫の子のように俊敏に床へ足をつけた。 「ごめんなさい」 「お白湯を持ってまいります。お嬢様、いけませんよ」 「はい。大人しくしております」 晴己へは一瞥を寄越して、老女は部屋を後にする。扉のしっかり閉まったのを見届け、一花は部屋の隅にある椅子をよいしょと持ち上げた。 「あのね、晴己くん」 足取りの覚束なさはさもあらん、それでも一人でガタゴトと椅子を並べ、はしたなくよじ登って、晴己の膝に手をついた。 「あとで、幾何教えて?」 「いいよ。何をやるの?」 「正弦と余弦と正接……」 「三角比か。もうそんなところまで進んでしまったのかい」 「うーん、少しだけ」 肩を落とす理由は分からないが、何か不満でもあるようなそぶりで腰を落ち着ける。指先まで覆う袖を睨みつける様からすると、教本を読んだだけでは易く理解できなかったことの悔しさだろうか。 家政を担う立場にもあった徳子は、四則ならわかっても、関数についてはさっぱりであるから、夜中、放っておけば日付の変わっても続く講義にこう言いながら切り上げさせる。 『今にそろばんになってしまいますから、そろそろおやめなさい』 しかし、ミッションでそこまで進んではいまい。ぜんたい、彼女はおよそ女子の好まない数学というものが得意で、また、日頃、晴己の後ろにくっついていたせいか、外国語についても得手としていた。 少なからず落ち込んでいる、小さな頭を撫ぜまわす。 娘を喜ばせることにおいて右に出るものいない男は、すぐに、近隣に住まう仏人のことを思い出した。 「あぁ、そうだ。アランに使いを出そうね。君にいつ会えるのかとそわそわしていたから」 ぱっと少女は華やぐ。 仏語の、第一の師は晴己であるが、目覚ましい上達を見せたのはアランと話すようになってからだった。つい、日本語で足りない語を教えてしまう男と違い、仏人はいかに歯抜けな文であろうと、辛抱強く撫子の言うことを聞いている。自ら考えて話すようになった一花は、日々のことだけでなく、時事についても、拙くではあるが、論を交わし始めていた。 「一花も会いたいっ」 「年を越す前に一度、お茶にでも招こうじゃないか」 「どのようなお話をなさっているのですか」 次いで、かつかつと戸を叩く。まったく、順序が逆で不敬であるが、老婦人に限ってそれは許されている。晴己の育ての親であれば、一花の親でもあり、厳しい作法の師でもあった。 つまりわざと、である。 立ち上る湯気の向こうから、鋭い視線を受ける。 「お仕事はお済みになられたのですか」 「いや、まだ……」 そして、娘を一瞥。 「お嬢様」 「大人しくしていました」 すっと、細められる。慌てて、放り出していた契約書に目を通す。 つまり、晴己の監督不行き届きである。咎めを受けるのは年長のほうだと、いつの世も決まっていた。 夜半。 久方ぶりの帰宅にはしゃいだ娘は、長く汽車に揺られたこともあり、やはり熱を出した。夕食もそこそこに、女中に手を引かれて食堂を後にすると、すぐに床へ着かせたと聞く。 本当を言えば、寝床に侍って世話をしたいものを、上役の父に回された書類は一向に片付く気配を見せず、また、返事を書かねばならぬこともあって、見送るにとどめた。日付の変わる直前、冷えて言うことを聞かなくなってきた指に匙を投げ、終いにする。ガウンを羽織ってもまだ寒さを感じる廊下を自室へ急ぎ、手燭から寝台のランプへ火を移した。 ぼうっと、明るくなる。誰も居ぬはずの布団で黒い絹糸が散る。 「一花」 うずくまるようにして、娘は枕にしがみついていた。細く、しかし豊かな黒髪をそっと払い、晴己は随分加減して、薄い肩を撫で下ろす。 微睡みを名残惜しむ、あえかな声。重たげな瞼を押し上げて、現へと手をひく男を呼んだ。 「はるみくん」 「今出はどうしたんだい」 今出は世話を頼んだ女中である。 「ねてたよ……」 「そう」 頬や額、首をぺたぺた触る。夕飯の頃より熱は多少下がった様子だったが、橙の灯りに照らされますます赤い唇から、気だるげな呼吸を繰り返していた。 まだ火の灯る燭台に手を伸ばすと、僅かに背を向けたほうから悲鳴が上がった。加減を知らない力でガウンを引っ張られ、腰からのけぞる。 「やぁだぁ」 「一花、一花のお水を取りに行くだけだよ」 「いやぁ」 眠気に開き切りもしない眼から、後から後から大粒の涙をこぼして、一花は決して離すまいと晴己の上着を手繰り寄せる。 一度、手のものを置いて、上着を脱ぐ。脱ぎ捨てられたとわかった子供はすぐにそれを手離し、彼自身に追い縋ろうと身を乗り出した。 「よいしょ、と」 突き出した両腕をとらえ、抱き上げる。離すまいとしがみつく子をガウンでくるんだ。熱を出してますます高い体温は、湯たんぽ知らずと胸の内で笑う。夜目を利かせることにして、今しがた入ってきた部屋を出た。 歩いていれば、ぐずっていた娘も大人しくなり、伴って、腕の重みも増す。都度、抱え直しながら、台所で水差しとコップをバスケットに入れ、また、元来た道を戻った。 寝台へ横たえる。まだ青い茎のような手足を投げ出し、娘は大人しく枕に顔を埋めた。袷から伸びる細い首の白いことは、ほの暗い蝋燭の灯りでなお明かになり、叩きもしない白粉がふっと香るような気さえした。 「お水、飲めるかい」 薄い瞼が震える。ふらふらと伸びる手に応え、抱え起こした背のしなやかさに唇を噛む。コップを持たせれば、乾いた唇をつややかに硝子が反射した。 「さ、おやすみ」 おやすみなさい。そう言いたかったのだろう、言葉にもならない鳴き声を発して、娘は安らかに目を閉じた。 ふぅ、と晴己も一息つき、灯を消してから横になる。闇の中で音もなく伸びた腕が首を絡め取り、男はその熱い体温を抱き寄せた。 未ダ幼キ子ナレバ、事物ノ善悪モ判然トセズ…… 返書に記した内容を思い出しつつ、息を吸い込めば、熱に立ち上る甘やかな匂いが頭の芯を鈍らせる。額の生え際に鼻先を押し付け、か弱い子の背を撫で続けた。
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