蝙蝠の行方

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蝙蝠の行方

肩揚げした着物の袂を帯に挟み、幼女はぴったりと父の胸にしがみついていた。 少し、アランに用があって出掛けただけだったのだが、見る間に空は暗く、重たい雲が覆い尽くしたかと思うと、雨粒はひとつ、ふたつ。帰ろうとしたときにはもう、随分本降りの調子で、しかし、俥を呼ぶのもなんとなく大げさに思えた。 蝙蝠をひとつ。晴己が頼むと、気のいい仏人は手持ちの中で一番大きな舶来の傘を出してきてくれた。 子どもを抱え、開いてもらったそれを片手に、父子は洋館を後にする。 泥濘んだ道を慎重に、水溜まりを跨ぐときはしっかり掴まっているよう声をかけるのだが、娘は奇妙なほど黙りこくって、必死に、父の肩に額を押しつけているのだった。 風が吹けば咳をする幼い子が、もしや雨に熱でも出したかと疑うが、しがみつかれた体におかしなほどの熱さは感じない。尻を支える腕がやにわに湿るでもなく、粗相したばつの悪さでもなさそうだ。 雨は降り止む気色もない。裾がまた泥で汚れ、洋靴の踵が道に沈む。 「一花」 はっと顔を上げた娘は、一瞬表情を強ばらせると、すっかり顎を引いてしまった。湿った前髪を肩に押しつけ、気を抜いて応えた自らの失態を二度と犯さんと言わんばかりに、父の上着の襟を握りしめた。 さて、何か、顔についているだろうか。考えるときの癖――顎を触ろうにも、両手はそれぞれに塞がっている。 据わりの悪いまま首を傾げ続ける晴己を、後ろから尻端折りをした丁稚が追い抜いていった。頭にのせた笠ひとつ、草鞋の足を跳ね上げて、雨煙の向こうへ消える。 兎にも角にも、帰ることだな。晴己は気を取り直し、止めていた歩みをまた、進めだした。 それなりに激しい雨の中をゆっくり歩いて帰ったものだから、抱かれた一花はともかく、晴己は膝まで濡れてしまった。出迎えた徳子は呆れて物も言えないといった様子だったが、悪戯の見つかった子どものように笑った晴己とは対照的に、一花は難しい顔をしている。女史に視線で問われるが、アランの邸を出たときからこうで、心当たりもまるでない。小首を傾げるにとどめ、傘を開いたまま、嶋田に預ける。 女手には大きすぎる傘を、女中は袖を濡らしながら閉じる。先を下げて持てば、石突きを雨水が伝い、玄関ホールに小さく水溜まりを作った。 抱き下ろされた幼子はじっと、その蝙蝠傘を見ていた。 晴己は目を瞬く。一呼吸ほどは様子を窺っていたのだが、やがて、今一度嶋田より傘を受け取り、おもむろに天へ向ける。 子どもの目はそろそろと追っている。 ばさりと開いた。 「――っ」 声すら上げられず、娘が怯える。小さな袖を掻き集めて顔を覆い、その場にしゃがみ込んだ。 呆気にとられた徳子、嶋田に、晴己はからからと笑った。 傘を閉じて嶋田に押しつけ、早くあっちで乾かすよう言って、追いやる。そして、鞠のように小さくなった一花を抱き上げた。 「傘が怖いのかい」 「ええ、傘でございますか」 珍しい徳子の頓狂な声に、晴己は得意げに口角を上げた。 抱え上げた子の顔色を窺って、内心、胸を撫で下ろす。子どもの様子を窺うのは難しい。今日のおかしな様子は、体の具合が悪いのではなかったようだった。 「これまでも、差してたろう?」 眦に滲んだ涙を親指で拭って尋ねるが、小さな子はきょとんとするばかり。終いには、戻ってきた嶋田の手に傘のないことをしっかり確かめていることに気付いてしまって、また一人、おかしげに声を上げた。 さて、それからしばらく。白川別邸の傘は新調されることとなった。外商の持ってきたそれを検分しながら、一花を呼び寄せる。 「ほぉら、一花」 ぱたぱたと走り寄ってきた子どものために、晴己は膝をつく。そして、深い緋色の花を広げた。
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