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2-2 幸せな夢
雨が降ると、どこからともなく、げこげこと声がした。何の声、とメイドに問えば、屋敷の庭の蛙が雨を喜んで鳴くのだと答えた。外で遊べなくなる雨を嫌っていた少女は、その時初めて、喜ぶものがあることを知ったのだった。
雨上がりの庭で姿を見ることはあっても、鳴くところは見たことがない。好奇心はすぐさま対象を次へと移す。
どんなふうに鳴くのだろう。
少女はメイドの目を盗んで、庭へ躍り出た。
芝生は雨を含んで、一歩ごとにびしゃびしゃ飛沫を跳ねさせる。泥で斑らになったスカートをむんずと掴むと、細い脚は軽やかに駆けた。
周囲を岩で縁取った池は、晴れていれば、水面から顔を出した水草と、その間をゆったりと泳ぐ赤い魚が見えた。雨粒で絶えずさざ波を寄せる今は、ただ暗く濁った水溜まりだったが、顔に張り付いた金糸を払いのけ、少女はじっと目を凝らす。
「いた」
池の縁、突き出た細い葉にしがみつく、明るい緑色。
蛙だ。
いざりよって、青い目を見開く。てらりとした背や、扁平な口を注視していた少女は、徐に、その喉がふくらみだしたのを見た。
げーこ
こぼれ落ちそうなほどに目を丸くする。鳴いた!
白い喉が大きく膨らむ。鳴く。しぼんでまた、膨らむと鳴く。口は終始閉じられたまま、喉で鳴く様子に、みるみる好奇心が満たされていくのを感じた。
雨は降り続ける。蛙は鳴く。少女は、メイドがあわてふためいて迎えに来るまで、ずっと、その小さな生き物を見ていた。
少女が自らの欲求に従うまま振る舞ったのが、昼のこと。夜になれば、熱を出した。結局、小一時間雨に打たれていたのだから当然であったのだが、改めて、母にはせめて傘をさせと叱られ、家庭教師には淑女がそんな馬鹿なことをしてはならないと怒られた。
夕食もそこそこに引き上げ、ベッドに押し込まれる。お願い、もう少しと哀れみを誘ってみても、今回ばかりは自業自得があまりにも明らかで、全く相手にされない。看護についたメイドは半ば監視の意味合いを含んでいて、昼に悲鳴を上げさせた以上、反省して、大人しくしているしかなかった。
熱に浮かされ、うつらうつらとしていた少女は、外からの妹のはしゃいだ声に、現へと引き戻された。
「お父様、お帰りなさい」
かっと、目の熱くなるのがわかった。横になる前よりも重怠い体を動かし、枕に顔を押し付けた。
今日は父が帰ってくるのに。とても大切な仕事に就く父が、久しぶりに帰ってくる日だったのに。
妹の声は間も無く遠ざかる。父の低い、やさしい声の一つも漏れてこなかったことが、何より、迎えに出られなかったことが悲しかった。
静かな室内に、メイドがページをめくる音。ひっく、と押し殺す泣き声は、メイドが気づいた時には止んで、淡い寝息に変わっていた。
衣擦れが近くにして、ゆるゆると目を覚ました。
どうにか開けられた瞼の向こうに、少女と揃いの金髪が流れ、鳶色の闇に、心配そうに覗き込む父の顔があった。
ごめんなさい。
喘ぐように少女は口を開いた。
父は少し、首をかしげる。
枯れた喉がどうしようもない懐かしさに塞いだ。それでも、引きしぼるようにして繰り返す。
ごめんなさい、お父様。お迎えできなくて、ごめんなさい。心配をかけて、ごめんなさい。
「大丈夫だよ」
ほんの少し囁いて、父が微笑む。
大丈夫。父の温かな手と、幼い手が結ぶ。あぁきっと、目が覚めてもここにいてくれる。大丈夫。繰り返される柔らかな声に安堵し、少女は長い息を吐いた。
茶色。
ぼやけた視界が明らかになって、それが天井だと気がつく。そのまま、板目をしばらく眺めていた。
がたん、と音を立てて、扉が開いた。目的もなく、条件反射のように首をそちらに向ければ、見事な金色が目に入る。微かに内を透けさせる白い肌、美しい造形の顔。感嘆の息が漏れた。
エルフだ、こんなところにエルフがいる。
「ツユリ!」
瞬く間に傍へ来て、膝をついた女性のエルフは、すっきりとした目を涙で潤ませている。靄のかかる頭でそれを眺めていたが、ふいに、名前が出てきた。
「リッタ、さん」
「……うぅ、うっ」
わぁっと泣き出す。
泣き声を聞きながら、ツユリはここが、屋敷でなく、エルフの国であることを思い出していた。
後に入ってきた老エルフは、医者のハインリヒと名乗った。覚えているかと尋ねられたが、頭がぼーっとして、深く考えることが難しかった。
どこまで覚えているかという問いも、同じように難題だった。途中で落ちたこと、栗鼠亭まで辿り着いたことは覚えていても、裏口から入ったあたりで曖昧になっていく。
「忘れてるなら、無理に思い出す必要もない。痛いところは?」
「いえ……」
「ふん。効いてるようだな」
効きすぎかもしれんが。付け足された言葉には気づかず、ツユリは礼を言った。
「ありがとうございます」
「礼より、自分のことを考えなさい。帰るんだろう」
リッタは涙を拭っている。同じように母も、泣いているのだろうか。
去来するのは、表通りから少し外れて建つ、住居兼店の二階建て。ドア前まで来てようやく『刺繍、お直し承ります リフリ刺繍』と簡単に書いた板が下がっている。店はどことなく薄暗いが、奥の作業部屋は裏通りから少しでも光を採り入れようと、横に細長い窓があって明るい。加えて、色とりどりの糸が積まれ、華やかですらあった。ツユリが裏口から戻ると、刺繍枠を手に、母が顔を上げる。気配に気づいた妹が、客もそっちのけで飛んで来た。
「母と妹が……待っていますので」
医師は黙然とうなずく。
「ツユリ」
たおやかな手を病人の胸に置いた。
「ずっと、ここにいてもいいのよ」
こら、と医師が細い肘を引いた。しかし構わず、脆く弱い人間に真摯な目を向け続ける。
何故、リッタがそのように申し出るのか。感じた疑問を考え込むことは難しい。ただ、このまま帰らないとすれば、すぐに思い出すものがあった。
目が覚める前、夢を見ていた。とても幸せな夢の気がしてならない。そしてそれは、きっと、故郷の夢だった。
「いえ……帰ります」
涙が溢れた。しかし、望郷の念などでは決してなかった。胸を満たすこの思いは、あたたかなくせ、喉の奥を柔らかく塞ぐ。
「そう……じゃあ、早く治さなきゃね」
声を震わせた人の子を、リッタがどう感じたのか、ツユリには知れない。
「ありがとうございます、リッタさん」
「いいのよ」
エルフの白い指が伸びて、人の目尻を拭う。そういった女たちの交流を、老翁はにべもなく突き破った。にゅっと割って入った皺だらけの手には、小さな三角の紙包みが三つ。
「飲みなさい」
もう、と憤慨する声に構いもせず、彼は黙々と自分の仕事をこなす。布団を剥ぎ、膝下まであるワンピースの裾を捲ると、左腿の包帯を解いていく。
ツユリはリッタに求めて上体を起こしてもらうと、彼女にすがるようにしてそれを見た。蒼白い腿に走る歪な傷。おののいて、足を動かそうとすれば、激痛が突き抜けた。
「動かすんじゃない。骨が折れてる」
足の付け根から膝下までを添え木で固定され、実際、動かすことは不可能だったのだが、なだめるように肩をさするリッタの気遣わしげな視線に、彷彿とするものがあった。
麻酔はなかった。
「やっぱり、治りが悪いな」
「食べてないですから」
ふむ、と医師は傷口と、患者の顔を見比べる。青ざめた人は緩やかに足から目をそらすと、ひとつ、ふたつと数えるように呼吸をした。
「重湯から始めるかね」
そうですね、と同意するリッタの胸に頭を預けると、香草が柔らかく香った。スープでも作っていたのだろうかと、思考を逃避させれば、幾分、気が落ち着く。鼻腔いっぱいにそれを吸い込むと尚更、昨年口にした野菜と豆のスープを思い出して、緊張が解けていった。
緩んだ左手を、それはするりと逃げていく。
「あ」
真っ白なシーツに落ちた、青いハンカチーフ。どうやらそれが、自分の手の内から溢れていったものだと気がついて、ツユリは首をかしげた。指先で手繰り寄せれば、肌にとけるようにやわらかく、しなやかな布は、今まで見たことのない、鮮やかな、透き通る青に染められていた。
まるで、宝石のような。
「ディルクのか」
嗄れた声に顔を上げた。医師は道具を片付け始めていて、はだけていた布団はもとに戻されていた。
「ディルク、さんですか」
「この間いらっしゃったときに、心細いだろうからって、置いていかれたのよ」
お優しいわね、とリッタが上から微笑む。ツユリは曖昧にうなずくしかなく、心地よい手触りに指を擦り合わせた。
「王子の自覚があるのかないのか、あいつは落ち着きがないんだ」
患者のために汲み置きにしてある水を勝手に注いで、翁は言った。いいじゃないですか、とリッタは笑う。伏せていたグラスを満たし、病人に渡そうとしてはたと、彼女が硬い表情をしていることに気がついた。
「ツユリ?」
人は大きく息を吸い込む。
「ディルク様……は、この国の、王子であらせられますか」
「ええ、そうよ」
僅かに伏せられた顔を覗きこみ、リッタは眉根を寄せた。青い顔からさらに色を失わせている。
「ツユリ、顔色が悪いわ。お水飲んで」
乾いた唇に、グラスの縁を押し付ける。エルフの手を包むように、ツユリの手も添えられるが、それは微かに震えを帯び、とてもグラスを支えられるとは思えなかった。
「急に起きたからだろう。横になって、寝ていなさい」
一歩離れ、黙って患者を診ていたハインリヒに指示されて、リッタの介添えで横になる。横になれば、確かに少し、頭に血の巡るような気がして、ゆっくりと息を吐いた。
「忘れ物よ」
枕元に音もなく添えられた、鮮やかな青のハンカチーフ。わざと置き忘れたそれを、あからさまには拒めず、ただ小さく、うん、と喉の奥を鳴らした。
夢を見た。溺れそうなほど濃い青の空に、金糸がたなびく。
ツユリはとても嬉しくて、父の首元に顔を埋めた。
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