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2-1 幸せな夢
「やぁ」
背後から声をかけられ、オイゲンは飛び上がった。
早鐘を打つ心臓をなだめながら振り向くと、フードを深く下げた旅装の男が立っている。悪戯が成功した子供のように笑みを浮かべた口元、そして陰から覗いた灰緑の瞳にはよく覚えがあった。
王子。口にしようとして、それはすぐにさえぎられる。人差し指を一本立てるだけで、彼は秘密を約束させた。
「彼女はどうだ」
オイゲンは頷く。ここに用があるとすれば、それしかないだろう。
ツユリが宿に着いた翌日の夕方には雨が止んだが、彼女は未だ、意識を回復していない。
手術をしたその真夜中に、高熱を出した。朝方、御者と共にハインリヒ医師が来なければ、オイゲンは、今度こそ城まで走るつもりだった。
ハインリヒといえば、雨の中、城へ戻った後、休みもせず、人間からもたらされた資料を漁っていたらしい。痛み止めや熱冷ましなどを煎じた後、直ちに宿へ戻ってきたのだから、この老エルフは己が使命に非常に忠実だった。
急な事態に狼狽えていたユッタは、術後は甲斐甲斐しく怪我人の看病をした。その細やかさには夫のオイゲンも目を瞠るほどで、エルフがそうそう病気にならないせいで機会がなかったが、つぶさに相手を観察し、世話をするのが上手いのだと知った。毎日、様子を見に来るハインリヒに、ああいうときはどうしたらよいのか、こういうときは、などと質問攻めにして感心されていたのが良い証だろう。しまいには、宿屋におらず、城で医師手伝いをしたらどうかと勧誘されていたが、妻は苦笑した。
『私は宿屋の仕事が好きなので』
恨みがましく、夫に、城へ来てくれたら助かるんだがなぁ、と呟いてみせたのには思いがけず笑いそうになって、堪えるのが大変だった。
そういったさまざまを思い出しつつ、オイゲンは首を横に振る。ディルクはそうか、と感情を見せずに頷く。日々の様子は伝え聞いているのだろう、依然として変わらぬと直接確かめたかっただけのようだ。
ほとんど毎日、診察しにくるハイリンヒとは別に、ディルクの使者が度々、こんなところにまで御用聞きに来たが、本人が訪れるのはあの日以来だった。
無理もない。未曽有の豪雨に各地は混乱している。水に流されたのか、行方の分からぬ者の噂や、街道も不通となっているところがあるらしく、馴染みの商人の内、顔を見ていないのが何人かある。状況の把握、および復旧に軍は対応を追われていたが、その指揮を執っているのは目の前にいる、ディルク王子だ。
大して被害のない宿屋の裏口から忍び込む、そのような隙はないはずなのだが。
「彼女は変わらず、そこの部屋か?」
「ええ」
目深にフードを下げた軽装は、とてもエルフの国、唯一の王子には見えない。濃緑のズボンに泥が跳ねていて、もしかすると、どこかを見て回った帰りなのかもしれなかった。
泥をくぐらせたブーツを躊躇いなく大部屋へ向ける。止めようと腰を浮かせるが、長雨に辟易した近隣の住人が、久しぶりの陽光を喜んで、長椅子に座っている。ユッタは奥の厨房で料理を作っているし、亭主が表を離れるわけにもいかなかった。
「ユッタを呼んできますから」
「構わないでいいぞ」
そして、勝手知ったるかのように扉を開け、部屋の中へ消えていった。
扉の正面、大きくとられた窓から差し込む陽光を避けるように、一番奥の右側で人が眠っている。宿屋のエルフが世話をするために、隣の寝台はマットを退けられ、水やタオルなどが並んでいた。
フードを下ろし、枕元にある丸椅子に腰かける。あの豪雨以来だったが、獣のように叫んでいた面影はもちろんない。頬が痩け、青い顔色は痛ましさしかなく、ただ、この国に来るため、災難に遭ったことが哀れだった。
平野と湖を隔てるように、山がある。標高はそうでもないか、他を廃するように急峻で、鬱蒼として年中薄暗く、獰猛な獣も多く棲みついていた。何より、降雨が多い。滑りやすく、体力を奪われやすい上、道もない。往来がないので草を刈ってもすぐに元通りとなった。聞くところによると、あまりに険しく、戻る者が少ないためだろう。人の間で『呪われる』というような噂が流れていて、護衛を頼んでも大抵断られるという話だった。
エルフに会いたければ身一つ、悪路を越えていくしかない。
成年のエルフよりも一回り小さな体で、大きな荷物を背負い、命懸けで山を越えてくる人間を、エルフたちは邪険にしない。宿屋を訪ねられれば紹介するし、過剰に料金を請求することもなかった。ただ、エルフから関わることは少ない。百を数える前に老い、死んでいく人間と、百こそ若人の盛りを迎えるエルフでは、時の流れが根本的に違う。人間は先に逝く。残されたエルフは、その先、百年は生きるだろう。
悲嘆に暮れる百年がどれほどなのかはしれない。かつて、エルフでさえ昔と表すほどの昔、人間とも多少の交流があったらしい。婚姻するものもあったようで、今もどこかに、微かながらも人の血が流れているが、疎遠となったのはやはり、後の悲しみが大きかったからだろう。残される伴侶だけでなく、子を成しても、成年を迎える前に死なれるのだから、子も、残して逝く人間も、如何程の悲哀であろうか。
人間とエルフとの物語はいつも悲劇で終わる。しかし、その結末に至らずとも、十分な悲劇ではないか。
色の失せた額にかかる、前髪を払う。危険を冒してまで、何故、小さな人はこの国に来たのか。
薄いまぶたをじっと見つめていると、ふと、まつげが震えた。うっすらと持ち上がる金色の狭間に、鮮やかな青。
その瞬間、傾いた陽が射し込んだ。黄みを帯びた光が訪問者を覆い、あまりの眩さに目を細める。黄金に輝く視界の中で、それでも、人の持つ青色だけは鮮やかに、彼に注がれていた。そして、滲む。溶けて消える惜しさに、鬱金の影へ身を乗り出すと、ぱたり、目尻を伝って雫が落ちた。
「どうした、どこか辛いのか」
夕暮れの、深く落ちた暗がりで、薄らと開かれた瞳は揺れる。また、涙をこぼして、にわかに、唇が動いた。
「ごめ……お、さ……」
渇いた喉の奥から、枯れ葉を擦りあわせるような声。上手く聞き取れず、しかし、病人は二言だけを幾度も繰り返していた。喘鳴にも似た人の言葉を聞き取るのは難しい。ディルクは躊躇いなく椅子を下り、床に膝をついて、彼女の口元に耳を寄せた。
「ごめんなさい、おとうさま」
ドワーフの求めてやまない、サファイアとも違う。昼から夜へ、夜から朝へ変わりゆく空に似た、娘の青。そこに落ちた金は、確かに、暮れ方の陽に輝く男の髪だった。
『父』とは己のことか。
せめて、幸せな夢でも映せばよいものを。絶えず涙を溢れさせ、謝りすがる様子は、親に置いていかれた子供にしか見えない。
あどけない様子に、胸が塞ぐ。だから猶更、ディルクは訊いてみたかった。
何故、険しい道を越えてこの国へ来たのか。
しかし、口をついて出たのは、思いもよらない一言だった。
「大丈夫だぞ」
はっとしたように、娘の涙が砕け散る。乾いた唇が喘いだ。
お父様。
エルフはうなずく。
ごめんなさい。
額の細い前髪を払う。濡れる睫毛は金色なのに、指に絡む髪は赤い。
衣擦れと共に布団から這い出た手は、乞うように旅装の肩で爪を立てた。いじらしく縋る萎えた腕に応え、男は両手で包み込む。
「大丈夫」
大丈夫。噛んで含めるよう、繰り返す。頬骨を伝う雫を指先で掬い、髪を梳く。やがて、薄い瞼が下り、穏やかな息を吐き出した。
「いかな、で……」
「ああ、ここにいる」
弱々しく握り返された手に、改めて力を込める。
橙に染まっていた街は、既に家々の窓から灯の漏れる夜になっていた。夕飯を求めて集った客たちの賑わいは病室の静けさを際立たせる。
王子はただずっと、寝息を数えていた。紺青の夜が満ちていたことに気づいたとき、ようやく、そろりと指先を口元に差し出してみる。柔らかに、ぬるい呼気が触れる。
生きている。
安堵して、寝台に頭を埋めた。
「ディルク王子」
ひっと上げかけた悲鳴を飲み込んで、のろのろと顔を上げた。振り返れば、腹心の部下が呆れ顔で戸口に立っている。
「早かったな、エルハルト」
「貴方は遅すぎます」
ため息をついたのは、どちらだったか。
まだ少し、ここに座って彼女を眺めていたかった。目覚めなくても構わない。エルフが思い出す頃には、きっとこの世にないだろう命に、心ゆくまで寄り添っていることは恐らく、何よりの幸せなのだろうと思った。
だが、自らの他愛ない望みを通すには、あまりにも重々しい身の上だ。
咎めるようなエルハルトの視線を感じる。わざと見逃しただろうに、勝手だなぁと苦笑した。
「今、戻る」
「ええ」
当然とばかり、返答は短く、ディルクは腰を上げた。
微かに、指が動いた。留めるように握り込んだ手はあまりにもか弱い。すぐにその、緩やかなしがらみから抜け出てしまい、しかし、そのまま空を握らせておくにはあまりにも、夕星の涙は悲哀に満ちていた。
何か、と思いを巡らせて、上着の内ポケットに手を突っ込んだ。滑らかな手触りだけは気に入っているそれを、人間の手に握らせる。
「君が、幸せな夢を見られるよう」
額に唇を寄せる。
硬い靴底で床を鳴らし、部屋を出て行きながら、王子は声を張った。
「リッタはどこだ、目を覚ましたぞ」
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