第二章 輪廻の種子・麗しの舞姫

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「交渉にはまだまだ時間がかりそうだし。ぼくの仕事のことは気にしないで友達を頼ってよ」  そう言いながらルトは親指で自分の胸をトントンと軽く叩く。 「ヘサーム王が、なかなか首縦に振ってくんなくってさぁ。ぼくも兄さんもナーゼルも困ってるよ。今シェラカンドが取引している所より、安くするって言ってるんだけど」  短髪の明るい髪を掻きながら困った声で言う。  ルトの家は代々商人で、大きな金山を所有しているそうだ。  共に商いをしている兄・ムグニィと、その友人・ナーゼルの三人で、金塊の輸入交渉でシェラカンドに逗留している。  ——が、未だ契約にこぎ付けていない。 「ヘサーム王って、なんだか怖い人ですよね」 「君のこともすっごい目で睨んでいるしね。まったく何が気に入らないんだか。だったら見なければいいんだよ。あっ、ぼくはアイーダの踊り大好きだよ! 綺麗だしっ。宵の翠玉って言われるだけあるよ」  あわてて取り繕うルトにアイーダは思わず小さく笑い出す。  世辞だとしても、今はこのふつうの感想が踊り手としては何よりうれしい言葉だった。 「わっ、笑わないでよ!僕はほんとうにっ」 「すみません。ありがとうございます」  一ヶ月前、初めて会った時もそう言ってくれた。  その時もジャービル王に絡まれていたのを今みたいに助けてくれたのだ。 「じゃあ、おやすみアイーダ。明日も楽しみにしてるから」 「ありがとうございました、おやすみなさい」  厨房に立ち寄ってお湯をもらい、アイーダは宿泊部屋の前でルトを見送った。  毎晩階段を上って付き添ってくれる彼に、ありがたさが募る。  踊り子たちの寝泊まりしている建物は王宮敷地内の一画にあった。  凸凹(でこぼこ)した白壁造りの二階建てで、絢爛豪華な王宮とは別世界だ。  アイーダはスカートを捲り上げ、左太ももに巻き付けたベルトから部屋の鍵を取り出す。  今一度、周囲に誰もいないことを確認して、すばやく鍵を開け、部屋に飛び込み、即、鍵をかけた。  真っ暗な中、カーテンの隙間から入る月明りを頼りに、アイーダはマッチで洋燈の火を点ける。  オレンジ色の光が部屋の一部を仄かに染めた。  簡素な部屋は白壁造りで、六畳ほどの広さがあった。  左手には姿見と箪笥(たんす)、右手にはひとり用の寝台と鏡台があるだけだ。  飾り気の無さで行けば、()といい勝負だろう。  アイーダは鏡台の上に湯の入ったボウルを置き、引き出しから石鹸を取り出して泡立てる。  泡を顔に乗せ化粧となじませると、ボウルの湯で洗った。  透明な湯が白く濁っていく様子に、アイーダは舞台で浴びる気持ち悪さをも洗い落としている気分だった。  そうであってほしいという願望もあった。 「はぁっ」  盛大に息を吐きながら、アイーダはドサッと部屋の寝台に身を投げ出す。 「ぐぅえッ‼」 「わっ、ごめんなさい」  直後、背中の下から上がる、うめき声に、アイーダは、あわてて飛び起きた。
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