第二章 輪廻の種子・麗しの舞姫

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「アイーダっ‼アイーダ‼・・・・・・みつ子っ‼」  耳の横で叫ぶムーニャの声も、今のアイーダには届かない。 (うそっ、うそっ、うそっ、うそっ‼)  ポンチョが捲れるのも、スカートの裂け目から太腿が、はだけるのも構わず走った。  今起きていたことが全て嘘であってほしい、夢であってほしいとアイーダは闇雲に走り続ける。  涙で白粉が剥がれ肌色の筋を幾つも作り、宙にも雫が舞った。 『メンドーなことは鈴木にやらせればい~よ。どうせ仕事だけなんだから』 『アイツ仕事譲ってやると目キラキラさせて『わたし頼りにされてるー‼』オーラ全開でマジキモイわ』 『こっちはわざわざ、おまえの願い叶えてあげてんだっての。あ~マジうざっ!!』 『デブ菊人形』  鈴木みつ子だった時に偶然聞いてしまった後輩と同僚たちの会話がフラッシュバックする。 『んな、キスくらい大したことねーだろ‼どんだけウブなんだよ‼自分がどんなカラダしてんのか分かってんのか? デカい乳してよぉ~。さっさと脚開きゃいいんだよ‼』 『お葬式デブ菊人形』  きゃらきゃらした声とルト()の捨て台詞が渦まいて、胸の奥を掻きむしっていく。  ふたつの声は、剥がされたその皮膚片すらも切り刻んだ。  真面目に仕事をしていただけ。  やるべきことをやっていただけ。  頼りにされているとか、点数を稼ごうとか、助けてあげているなんてつもりはない。  踊り子だって安全策を選んだ結果だ。  この訳の分からない世界で生きていく手段として。  他にも職業はあるだろう。  けれど土地勘も知識もない状況で一座から出るのは危険だと考えた。  男性を垂らし込もうなんて度胸なんてない。  己惚れていたつもりはない。   『お人好しも大概にしなよ』  耳の奥で最後に浮かんだのは、向かいに座っていた彼の声だった。 「ハァ・・・・・・ッ、ハァッ・・・・・・」  無意識に動いていた脚が悲鳴を上げ、アイーダは膝から崩れ落ちた。  汗だらけの素足に砂が張りつく。  大理石の床がひやりとした。 「みつ子ぉ・・・・・・」  踊りの疲れと走った疲れ。重なる心の疲れに、アイーダの体は変に昂ぶっていた。  あれだけ走っても、涙を滝みたいに流しても、心は数十分前と何ひとつ変わってはいなかった。 「みつ子ぉ・・・・・・」  耳がしおれたムーニャがアイーダの左肩に乗り、彼女の顔を覗き込む。  アイーダは、ごしごしとポンチョの裾で唇を拭った。 (最悪)  同じ考えの男性の存在を喜ばしく思っていたのに。  すべてが偽りだったのだ。  悔しい 辛い 悲しい   胸の中で蜷局(とぐろ)を巻いた感情。  呼吸をくり返す口から、叫びそうになった。 「口づけなど、些細なことだろう」  不意に低い声が聞こえる。  途端にムーニャがびくり、と全身を震わせた。  アイーダが辺りを見回せば、幾何学模様の陰影と仄かに浮かびあがるアーチ状の柱しかない。  青と白が織りなす世界が永遠に続くだけだ。    ジャリ、と砂を踏む足音がした。
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