お父さんが待っている

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お父さんが待っている

 正直、この時ほど快道君が居てくれて良かったと思ったことはない。 何しろ、あまりに気が動転していて何をどうして良いのやら、サッパリ分からなくなっていたのだ。  普段から自分はもっと『冷めた人間』だと思っていたのだが。それがイザとなると、こんなにも不甲斐ないものかと歯がゆかった。  何はともあれ、快道君に着いて貰ってタクシーで病院に向かう。  道すがらお母さんに電話で連絡をとり、状況を確認する。 「……救急車? うん……先生に聞いた。今、そっちに向かってる。怪我なの?何か転落したとか? ……え?……『分かっていた』って……何それ」  私が『こんな有様』だし、お母さんはもっと取り乱しているかと思ったが、意外なほどに落ち着いた声だった。  或いは『それ』は、同じ寺生まれで寺に嫁いだ女としての覚悟とでも呼ぶべきものか。  しばらく、私は無言でお母さんの説明を聞いていた。  何も言えず、相槌を打つこともなく、ただ黙って……  通話を切ってから少しの間、私はまるで己の心を見失ったかのようだった。  頭が真っ白になって、自分が何処に居るのかすら分からくなってしまいそうな程に。 「……さん、美樹さん?」 「え?は、はい!」  快道君に呼びかけられて、我に返る。 「……大丈夫ですか?」  私の顔を覗き込むようにして、快道君が心配してくれている。 「うん……ちょっと、流石に……に…」  手が小刻みに震えて止まらない。  何だろう、何と言っていいんだろうか。ちょっと、言葉が見つからない。  手で顔を押さえていないと、頭を何処に置いていいのかすら分からなくなる気がしてくる。  30分ほど走って、タクシーが病院の正面玄関へ横付けされる。  私達のただならぬ気配を運転手さんが察知してくれたらしく「料金はいいから、とにかく急ぎな!」と言ってくれた。  私は「ごめんなさい!」と頭を下げて、快道君と共に急いで1階の奥にあるという集中治療室へと向かう。  病室の前にある長椅子に、お母さんが項垂れて座っているのが見える。  その肩の落ち具合が、状態が悲観的であることを如実に物語っていた。    まさか……そんな事が!  お母さんは言っていた。「お父さんは癌が進行していて、余命僅かだと診断されていたの」と……。  それでも「坊主(ワシ)が寺に居なかったら、誰が檀家の先祖を供養すると言うんだ? 檀家を安心させるためにも、ワシはお寺に残る」と入院を拒んで須弥壇の前に座り続けたのだという。 確かに、此処しばらくは何だか顔色がすぐれない気がしていたが…… そんな、命のぎりきりまで粘っていただなんて! 「……美樹。お父さんがあなたを呼んでる。『二人だけで話しがしたい』って」  お母さんは、そう言って集中治療室の白いドアを指さした。  「ん……分かった。とりあえず、行ってくる」 下唇を噛んで、小さな声で答える。 入り口で白衣を借りて袖を通す。……私には少し、丈が長いかな。 部屋の中央にあるベッドに、お父さんが横たわっている。‥‥何だか他人みたい。いつもの迫力(オーラ)を感じない。 ピ‥‥ピ‥‥と、規則正しい電子音がしている。 「美樹‥‥か?」 お父さんが、私に気がつく。 呼吸は荒く、言葉は辿々しい。 「うん‥‥」 ‥‥覚悟を決めている人間に、何と言って声を掛ければ良いんだろうか。見当もつかない。 「か‥‥観丹(かんたん)が死んだときにな‥‥」 ボソボソと、お父さんが囁くように語りかける。 僧籍にあるものは音読みで名前を呼ぶのが通例だから、お父さんは観丹(みにい)を『かんたん』と呼ぶのだ。 「お前‥‥抹香を‥‥御本尊様に‥‥投げつけた‥‥だろ‥‥」 ‥‥やはり、バレてたか。 はは‥‥まさか、此処に来て6年前のお説教とはね。全く、このくそ親父ときたら‥‥。
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