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読経
お父さんの通夜式は、かつて見た事が無いほどの威容だったわ。
……辺り一面、何処を見てもフル装備した『坊主』ばかりだし。
ま、それも当然と言えば当然かも知れない。父方も母方もお寺なのだし、当人自身が宗派の役職を兼任していた都合で、本山を含めて各地から『坊主』が集結しているのだ。
事情を知らなければ、葬儀というより何処かの大きな落慶法要にでも見えるだろう。何しろ万才宗を挙げての葬儀であるし、『葬儀』と言えば坊主一番の見せ所と言っても過言ではあるまい。
これがキリスト教なら、そこまで葬儀に力が入る事は無いだろう。キリスト教でも葬儀はあるが、やっぱり『花形』は結婚式だからだ。
無論、仏教にだって仏式の結婚式は存在している。
お父さんがお母さんと結婚した時は双方ともに『お寺』だったから、結婚式は仏式で、結婚指輪の代わりに『数珠の交換』があったそうな。
……いや、でも両親ともに薬指に『結婚指輪』をしてたよね? 今にして思うと、アレは宗教上の問題にならなかったのだろうか。一応、まったく別の宗教の慣習なんだけど。……全く、つくづくいい加減な宗派だと思うわ。
さて、これだけ坊主ばかりだと『お葬式だから、何処からかお坊さんを呼んでこないと』という心配をする必要はないけども。
むしろそれより『誰が読経を務めるのか』の方が問題よね。ヘタな事をすると後でモメる危険がありそうだし。
お母さんとも色々と話し合ったけど、やはり『トップにお話をもっていくべき』という結論になったの。
そこで、お母さんと私、それに『面識がある』という快道君とともに、本山のトップである阿闍梨様のところへ「お願い出来ないか」と挨拶に伺ったんだけど。
阿闍梨様はゆっくりと首を左右に振ってこう言った。
「……折角のお申し出ではありますが、愚僧はその任に適しておるとは思いません。やはり、此処は縁の深い者が任に当たるべきかと存じる。……どうかな?快道君。そなたがお送り申し上げては?」
その時初めて、私は普段は余裕の笑みを絶やさない快道君の顔が引きつるのを見たわ。
「いや……それは流石に僭越かと存じます。これだけのお歴々が揃っておられる中で、それはあまりに任が重いかと。それに、実際のところ経験の薄い拙僧ではお勤め出来るお経の数に限りがございますれば」
ま……そうだろうね。
普通なら『顔じゃない』という所ではあるけれど。
しかし、阿闍梨様は尚も譲らず、快道君の肩をポンと叩いた。
「気に致すでない。経はな、般若心経と観音経のふたつでええ。本堂は畳敷きであるし、長々と唱えたところで列席者の足が痺れるだけじゃて。般若心経が終わって観音経に入ったら焼香を始める手筈としておこう。後は主だった列席者の焼香が終わるまで、観音経を繰り返しておけばよいのじゃ」
……いい加減な事を……そういう裏話って、普通は喪主のいない所でするモンなんじゃないかしら? あのー、目の前に遺族が居るんですけど?
「……それにな。そなたは亡くなられた御住職が『たっての願い』と、この愚僧に掛け合って此の寺にやって来たのだ。されば、その想いに準ずるが筋だと思うがの」
『たっての願い』か……ああ、思い出したじゃないの!くそ親父め……。恥ずかしくて顔から火が出そうだわ。ダメだわ、黙って下を向いていよう。
「そうですか……そのような事でございますれば」
肯定はしたものの、私とは対照的に快道君の顔色は真っ青だ。仕方無いわよね。これだけの数の大先輩を前にして読経はド緊張して当然だわ。
けど、阿闍梨様は大きく頷いて言った。
「……うむ、頼むぞ? 心配はいらぬゆえ、ドンと構えてゆけ。何、昔から言うではないか。『男は読経』とな!」
「……。」
思わず、周囲が凍りつく。
うん、間違いない。
オヤジギャグは我が宗派の戒律に組み込まれていると見て相違あるまいて。
そして、何事も無かったかのように通夜式が始まる。
異様というか、荘厳というか。
すごい……
最前列の遺族席に座っていると、背後からお経の波に飲まれそうな気がしてくる。本堂が一体となって、まるで地響きのように床下から読経の声が湧き上がるようだ。
‥‥やはり重低音はBOSEに限るわ。
それにしても、これだけの数の僧侶が一斉に『般若心経』を唱える様は、生涯に二度と見る事が出来ない光景だと思う。
そして、心配はしたけど快道君も背筋をピンと伸ばして読経の役目を立派に果たしている。……うん、やはりカッコいいわ。張りのあるいい声しているし。
……ギャーテー ギャーテー……ハーラーギャーテー……ハラソーギャーテー……ボジソワカ……ハンニャァァァ……シン……ギョォォ……
あ、1曲目が終わりね。次は観音経か。なら、焼香の準備をしないと。
セーソン……ミョーソーグー……
ポクポクと規則正しい木魚の音色に乗って、まずは喪主であるお母さんが焼香台の前に立つ。一礼をして焼香をし、席に戻ってくる。次は私だ。
……ネンピー……カンノンリキ……ニョージツ……キョークージュー
うわ、立って聞くと流石の大音量だ。何しろ皆さん全員が本職なのだから。喉の鍛え方が違うというものだろう。
お母さんと同じように列席者に向かって深くお辞儀をして、焼香台に向かう。
チラっと、快道君の顔を見ると。
……あちゃぁ、ド緊張してるわ。般若心経は毎日のお勤めで唱えているからまだ慣れているとしても、観音経はそこまで自信が無いと見える。
……大丈夫かな? さっきより明らかに声が小さいし。
その時だった。
快道君が、ふと呟くように口走ったのだ。
「………あ、間違えた」
……間違えるなぁぁぁ!
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