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本堂の片隅で
「そっかぁ……いいなぁ」
思わず、羨望が口をついて出てくる。
「いい……ですか?」
快道君が小首を傾げる。
「うん……だって、それだけハッキリと自分の『やりたい事』って言うか『進むべき道』が見えているんでしょ? それは、羨ましいかな……て。私なんか、何の取り柄もないし。何か……自分が何をしたいのか、よく分からない」
本来、そういう進路相談は親にすべきなんだろうな、とは思う。
何しろ、自分の将来に関わる事なんだから。
けど、まさか『あの親』に向かって『自分が何をしたいか分からない』などと言う勇気も無いし。
あのゴリラ親父に対し、うっかりそんな事を言おうもんなら……
「例え今は上手でなくとも、好きな事……とかはありませんか? 私の知り合いにもベーカリーの店を自分で出したくて勉強している人がおりますが」
「そうね……。正直、何が好きか……って言われてもピンと来ない気がするのよ。快道君みたいに『これ』って言うものが無いって言うか。感動が薄いって言うか。薄い膜の向こう側に景色を見ているような感じ‥‥かな」
あ……コップの氷が、全部溶けてる。
やっぱり、今日は暑いんだな。
「そうですか……されども『それ』は必ずしも悪い事とは言えないかも知れませんよ?」
快道君はコップを膝から下ろし、そっと傍らに置いた。
「悪いとは言えない……?」
「ええ。元々、仏教の祖であるお釈迦様……すなわちブッダは『この世の全ては空である』と説かれました。人が『空』を極めるのであれば、何事にも心を動かされる事はなくなります。されば『好き』も『嫌い』もまた存在しません。ですから、美樹さんは、ある意味『それ』を体得していると言えるのではありませんか?」
うーん、何か凄い例えだけど。多分、そんな大層なことではあるまい。
何かもっとこう、『白けている』というか。
そして『その原因』は。
自分でも、見当はついている。
「そう言えば……」
快道君が、納屋の外に眼を向けた。
あちゃぁ……気づいたか。多分『余計な物』を見たんだろうな。
「美樹さんには、ご兄弟がお見えなので?」
やっぱりか。そりゃ……気づくだろうな。
……『居る』というか、『居た』というか。
「……失礼、実はこの納屋の外に『子供用の自転車』が置かれてるのが眼に止まりました。男の子向けのキャラクターが描いてあるものでしたから、美樹さんの物とは考え難くて。さりとて昨日からこっち、そのようなご兄弟が居るという話も伺っておりませんでした」
「あれは『兄』の自転車なの。……分かってはいるんだけど、誰も片付けないから、ああして放置されたままで……」
ああ、そうか。あれから5年……いや、6年になるか。
「左様でしたか。では、今はその『お兄さん』は……」
空気を察知したのだろう。快道君が、眉をひそめる。
「ええ。あの、向こうにある本堂の片隅に」
下を向いたまま、私は本堂の方を指さした。
「……。」
眼と口を閉じ、快道君が姿勢を正して合掌する。
6年前、兄の『観丹』は、病気で死んだ。
何万人に一人とか言う遺伝子の難病で、医者も手の施しようが無かったらしい。私達家族は、ただ兄が衰弱していくのを見守る事しか出来なかった。
無力感。
当然、住職たるお父さんが『それ』を最も強く感じていたに違いなかろう。
だが、幼少の頃から『御仏の力が』『御仏のご加護が』と言われ続けて育ってきた自分としては、その縋るべき『御仏』とやらが何の御業も見せる事なく沈黙を続ける事が、子供心にどうしても納得出来なかった。
何故、兄を助けてはくれないのか。何故、黙ったままなのか。
あれほど迄に、私達は『あなた』を信じていたというのに。
『あなた』は、それを裏切るというのか。
多分、それ以来だ。私が何かに熱中するという心を忘れたのは。
心の中に、ぽっかりと空いた空洞……
兄の葬儀が終わってから、私はひとりで真っ暗な夜の本堂に入った。
二日前まで病院のベッドで横たわっていたはずの『兄』は、僅か15センチのほどの小さな黒い木片と、金色に染められた戒名に姿を変えていた。
私は、眼前に供えてある香炉から抹香を鷲掴みにすると。
須弥壇の中央で、何も言わず何も悪びれる事なく突っ立ている不動明王像めがけて、ありったけの力で叩きつけてやった。
翌朝、そこら一面に散らばる抹香の欠片を見て、お父さんは何が起きたのかを把握したに違いあるまい。
だが、私には何のお咎めも無かったし、何も聞かれはしなかった。ただ、黙って一人黙々と細かい破片を掃き集めていた後ろ姿を覚えている。
「……美樹さん?」
「え?あ、ああ、はい!」
快道君の声に、我に帰る。
「すいません。もしよろしければ、後ほど本堂で経をお供えさせて頂ければと存じますが?」
「……有難うございます」
私は小さく、頭を下げた。
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